はい、しげのですが?

匿名でないと困ることは書かない。最近は体調不良で投稿めっきり減ったが。

休日に晴れたとしたら、どうしたって都心の散歩だ。

2012年03月25日 18時56分54秒 | Weblog
それにはいくつもの理由がある、が、普段きちんと整理したことがなかったので、書く。

まず、僕がとても気分に左右される人間だから。昔、「銭湯に入る前と出た後で人生観が違う」と感じたこともよくある。その位、精神状態によって考え方が左右される。

決められた仕事を決められたようにこなす時には、特に問題はない。集団の中で物事をするときも、同様に、問題はない。でも、これからしなければならないこと(正確には、しなければならないと決めたこと)の大半は、そういう種類のことではない。

だから、思考がぶれない環境を意識することと、集中の訓練が必要になっている。それがうまくいかないと、結局、時間があるのに、無駄にすることがとても多い。宿題がなかなかできない小学生みたいでみっともないが、現実なんだから仕方ない。「晴れた日の都心での散歩」とは、集中のための儀式のひとつだ。

わざわざ休日の渋谷とかの雑踏の中を歩くことや、冗談のような、無理してるとしか言えないような都心の風景の中を、まるで普通のように闊歩する人の脇を通り過ぎていくことは、ある種の確認の儀式でもある。たぶんそれは、「東京に留まることに伴う責務」を確認するためかと思う。

東京で生まれ育った人たちにはわからんだろうと思う。
地方から出てきて、東京を「選択」した者には、ここがどういう場所かを考える。廃れた言い方をすれば、ここが「帝国主義本国の中枢」ということだ。「日本」という国の、「東京」という場所が、何を踏み台にして成立しているのか。このことが再確認されつつあるこの一年でもあったと思う。

ついでだから、20年勤めた職場を退職したのは、たしかにあの震災が後押ししたのであって、「ああよくある話だね」と言われることは、甘受したいと思う。人の死を感情的踏み台にしての転身、と言えば身も蓋もない。ただ、東京で暮らしたこの20数年間に、自分が影響を受けた人たちが、何人も、理不尽な運命によって、途上で亡くなって行ったこと、その「無念」が果たされていない、何ほどのことができただろうか、と改めて思い起こす契機になったことは確かだ。

人は感傷の動物だ。感傷によって考えたり書いたことは、恥ずかしいし抹消したくなるが、今後を決意を持って生きていくためには、そう開き直るしかない。感傷をばねにしてしか、闘っていくことはできないし、できなかった。違和感の確認が、また、思考と活動の動力になる。そんな偉そうに言って、今も、何ほどのこともできてはいないが。

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