「戦後民主主義」が先送りした『「日本国民」という落とし穴』
-「令和の時代」の「日本の人権」を考える
われわれの周囲で、「令和初の」とか「令和の新時代を一区切りに」のような言いぶりが当然のようにされている。その都度、ものすごい違和感を感じている。
また、即位の例の後のパレードだとか、大嘗祭の儀式の中継だとか、それ自体をイベントとして楽しむ会話をそんなに嫌悪しているわけでもないが、「何でこんなにも、みんなが天皇の話題に違和感を覚えないのか」と、そのことに違和感を覚え続けている。いわゆる昭和天皇の死去とそれに伴う「天皇Xデー」を経て「平成の時代」などというものが到来したのが、すでに31年前なのだから、小渕氏が紙をかかげた当時の写真以外に、そのころの記憶を持たない人たちが、一緒に仕事や活動をしている仲間でも多くなりはじめている。
少なくとも1950年代~1960年代に生まれた我々の世代では、1945年~1950年におこなわれたこと(いわゆる「太平洋戦争」での日本の敗北・降伏と、アメリカによる占領、日本国憲法の制定とサンフランシスコ講和条約での国際社会への復帰・独立回復)によって、日本という国家社会のすべてが再構築されて、人々の人生はこの上を歩んできた、と信じてきた。学校教育や政治・文化の言論の基調も、その前提に立っていた。
その時提示されていた思想は、いわゆる日本国憲法と象徴天皇制の上に立つ、平和主義と民主主義の国民意識である。1970年代までの経済の順調な発展と国民所得の伸び、「中流階級」意識の形成によってそれは肯定されてきたと思う。
しかし、実際には、この「戦後民主主義」の国民意識形成には、多くの課題が残されていた。そのことを問い返す契機が、1995年の「戦後50年」であった。この時点で、重要な論点が多く提起されていたが、しかし、あまり注目もされず、課題は置き去りにされたまま終わってしまった。
戦後の日本が日本国憲法によって規定された「戦後体制」=象徴天皇制のそれであったことは、各人の自覚の深度は別にして、否定しえない歴史的事実である。そこでの教育は「日本国民」を育成する国民教育として展開され、今日の「経済大国」をになう人材を育てあげてきた。しかし1995年の〝戦後50年〟という節目が鮮明に描き出したように、日本は内にさまざまな問題を抱えるだけではなく、外との関係、とりわけアジアとのあいだに少なからぬ摩擦、断絶を抱え込んだままである。植民地支配や侵略戦争の事実をめぐるアジア人と日本人の認識の落差はまさにそれを証明するものであるが、それはたんに認識の問題としてだけでなく、アジア諸国と日本の政治・経済・外交その他のさまざまな問題として時に具体的なものとしてきびしい形で噴出する。
植民地支配や侵略戦争の事実が、前世代の日本人によって刻印された歴史のなかの罪であるとするなら、過去の謝罪や戦後補償がまともになされえないという現実の事態は、今日の世代の日本人による現在進行形の罪である。そこには戦前と戦後の連続性があり、しかも内と外とが本質的に表裏の関係、相互規定の関係にあることからするとき、日本とアジアのあいだの摩擦、断絶は、じつは日本人ないし日本国民がその内部に抱え込んでいる問題と深くリンクしているものと考えてよい。それは事の成り立ちからして、「日本人」とか「日本国民」、さらには「日本民族」などと呼ばれる一つの枠組みの人間集団の問題であり、それを育成してきた教育の問題でもある。のみならず、ここにみる戦前と戦後を連続する教育の問題点は、たんに過去の戦争責任や歴史認識においてだけではなく、今日の日本社会に巣くっている民族差別や差別、障害者差別その他さまざまな差別・排除の行為において日常的に顕現している。
「日本国民論-近代日本のアイデンティティ」尹 健次(ユン・コォンチャ)1997年 Ⅶ「日本国民」という落とし穴-戦後日本の思想と教育に関連して
このような状況の現在、必要であり有効なことは、「令和という新しい時代」を構想することではない、と考える。(今回天皇に即位した人間がどのような人格かはさておき)「なぜ天皇制なのか」「天皇制はどのような機能を果たしてきたのか」「日本人とは何か」という根源的な課題を問い損なって出発した「戦後民主主義」が、そのことによって差別・排外主義の温床となって75年後の現在を迎えている、という事実は、今、このタイミングにこそ問い返されるべきなのだ。それは、日本における人権の問題を考える時に避けて通れない道だと考える。
改めて『「日本国民論-近代日本のアイデンティティ」尹 健次(ユン・コォンチャ)1997年 Ⅶ「日本国民」という落とし穴-戦後日本の思想と教育に関連して』に注目している。購入しての一読を勧めるが、基本文書としてこの章のテキスト化を進めている。以降、このテキストに依拠しながら考えていきたい。