ここ半月ほどの間で、コロナウイルス関連の新しい情報を確認する、という意図を明確に持つ人、持たない人を問わずテレビへの注目やインターネットのチェックの頻度が高くなっているように思われる。また、そこで発信される情報に対し、過剰に反応する周囲の人々の態度を目にして、危険なものを感じている。
これは、2011年の原発事故の状況と似てはいるが、ずっと深刻なものだ。感染経路が特定できない、という事例が多くなり、また「誰もが知っている有名な「あの人」すら、おそらく最善の治療をもってしても死亡してしまう」という現実は、多くの人にとって耐えがたいもので、コロナウイルスへの恐怖は、2011年当時の放射能への恐怖をはるかに上回り、また対処の困難なものだ。
そのような状況下で、新型コロナ非常事態宣言とロックダウンへの期待圧力が強まっているのを、強く感じる。現状の人々の恐怖感から、心理的な流れとしては当然とも言えなくもないが、人々の口ぶりは明らかにマスコミの言説を直接に模倣するもので、ほぼ自身の思慮を反映しない反射的なものであるように思える。
自身の思慮を反映しない反射的言動である、というその根拠としては、例えば、「早く非常事態宣言しろよ!」「小池は会見でマスクを外すんじゃない!」等の感情的な発言を、自身は激情的に口にするが、自身は現在、不急不要の立ち呑み屋でマスクをせずに飲んでいる・・・等のちくはぐな、ある種滑稽な行動に表れるのだが、笑って済まされる状況ではないことは、多くの人がうすうす感じていることだろう。
さて、ひとによっては唐突かもしれないが、しげのはかつてこの地で、関東大震災の際に多くの(12万人の震災犠牲者総数のうちの6千人~1万人)朝鮮人が虐殺されたこと・・・・・1983年以降、そのことが、積年の課題であると考え続けている。
積年の課題、というのは、それ(災害等のパニックが潜在的な差別意識と結合して、メディアの大衆操作とデマの拡散の中で多くの人命が失われたこと)は過去の不幸な事件ではなく、再びまたこの地で繰り返されるのではないか、という危機意識を持ち続けている、ということだ。
そう思わざるをえない状況はいくつもあるが、その一要素として注目しているのが、危機的状況での「個々人の反射的言動=パロティング」の顕在化~拡大だ。2004年に著された「パロティングが招く危機」という本がある。著者が提起した「パロティング」という現象は、その後注目され定着することはなかった。
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「…さらに問題なのは、人々の意見の形成過程である。複雑、多様な問題が山積している現在、それぞれの問題について、自ら熟慮し、主体的に意見を形成するのは大変な労力をともなう。また、社会全体の動きに対して、個人が働きかけうる余地は少ないのではないかという無力感も広まり、人々の関心も低下してきている。そうした中で、日ごろ接触しているメディアで見聞きしたことを深く考えることなく、あたかも自分の意見であるかのように受け入れる場合が増えてきてはいないだろうか。」
「 問題は、今日の世の中において、人々が自分の意見として保持しているもの、あるいは自分の意見として他者に対して表明しているものは、本当にそれぞれの中でさまざまな体験や価値観や他の状況と照らし合わせたうえで醸成された意見なのだろうかというところになる。どうもそうではないのではないかと思われるケースが最近多々観察される。・・・」
「 本当に個人の態度に根差していない場合でも人々は自分の意見であると錯覚し、いかにも自分の内面からわき出てきた考えであるかのように他者に対して語ってしまっている、ということはないだろうか。つまり、ここで浮かび上がってくるのは、個人の意見が実は他から注入されたり、あるいは他からの借り物であったりする場合が非常に多く、しかも人々がそのことを正確には認識していないのではないかという疑問である。・・・」
「…さまざまな争点に関して表明される意見は、よく吟味してみると単にメディア論調をオウム返しにしているに過ぎず、細部にわたって個人個人が行うべき検討が欠如していたり、はなはだしい場合には具体的な内容に関する知識を欠いている場合があるのではないか。」
「 最近の日本においては、人々の争点認知の低下がさまざまなデータに現れている。つまり、社会的な問題に関する関心が全般的に低下しているのが現状である。そうした状況の中で、メディアが述べた見解を自分の中で醸成されたものと錯覚しているケースが人々のあいだに広がってはいないだろうか。・・・このオウムのような受け売りを、ここでは「パロディング」と呼んでおく。」
「パロティング」と呼ばれるこの行動では、新聞で言えば「見出し程度」の情報にもとづき、その問題に関する詳しい情報をほとんど持たずに、「聞かれれば答える」のである。
パロティングが増えれば、新聞やTVニュースの論調の変化にともない、「世論」は簡単に変化する。メディアが世論を作り、それに従って世の中が動くと言う状況がここに生まれる。
そしてその状況からは、振り子の揺り戻しの芽は育たない。」
『パロティングが招く危機-メディアが培養する世論』石川 旺・リベルタ出版・2004年
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メディアから発せられる過剰なまでの情報のシャワーを浴びる中で、今まさに、特に若い人から、脊髄反射的な言動=パロティングが発せられていることを怖ろしく思う。まさに「パロティング=オウム返し」であるにもかかわらず、自己の確信であり、だれもが自分の意見に賛同することしか想定されない、しかも何かの仮想敵に対する宣戦布告であるかのように強く発信されていく。そんな場面を日々見るようになっている。
「パロティングが招く危機」で著者が熟慮回復の手立てとして提案したのは2つだった。
(1)クロスメディアチェック
「争点に関して考える場合、意識して複数の情報源をかつようするのである。具体的には、新聞各紙を読み比べてみたり、新聞とテレビニュースを組み合わせてみたりするやりかたである。」
(2)論理チェック
「供給された情報に対し自身がすでに持っている情報を活用し、それらの情報と照らし合わせることによって、自らの判断に到達することである。そうすることによって、メディア情報はそのまま蓄積されるのではなく、自己処理を経て内面化される。この方法は、デマや流言に対処する方法として広く用いられて来ている。」
もちろん現実には、積極的にパロティングする人たちは、(1)も(2)もしたくない人たちである。
だとすれば、その周囲にいる人々が、パロティングする人たちの「同意の唱和の強要」に対して踏みとどまり、(1)や(2)を可能にする、「熟慮の時間」を提案するしかない。
「熟慮の時間」の中で、歪んだ情報の津波をせき止めること。それは、2011年のあの時も必要だったし、力を尽くして行ったことではあった。これからも、それがさしあたって重要な課題だと思う。