新しい記事を書くのも随分久しぶりなのだが、特にタイムリーな話ではなく、また差別論である。
すでにこのブログの中で、何度も差別論を書いている。
特に、<「誰もが『差別する』ことから逃れられない」現実から始めるために>で書いたことと、これから書いていくことは、内容がかなり重なる。しかし、今回から、今まで書きかけて中途で終わってきた論点を、再度集約整理していきたいと考えている。その構想はだいぶ前からあったのだが、体調もあり手つかずだった。
このブログでも、原子炉の話とかは何年経っても読んでくれる人がいる一方、差別の話ははなはだ人気がない。身近な人の感想でも、「この手の話は小難しくて何を言っているのかわからない」と言われることが多く、それが、今後の論はより抽象的になる部分があるので、もっと読みにくい、わかりにくい、と言われるかもしれない。それでもコツコツと少しずつ続きを公開していこうと考えている。また、わかりにくい部分、言い足りない部分を書き換えたり補充したりするかもしれない。
とりあえず、今年ついに還暦を過ぎて定年も迫っている身で、そんな所信表明をしておきます。
なお、この数年間で関連して書いてきたブログタイトルを以下に挙げておきます。
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「誰もが『差別する』ことから逃れられない」現実から始めるために
「思いやり」Vs「人権教育」(その1)-2017年人権週間の最終日に寄せて-
日本で最大の障害者差別の加害当事者は、行政自身だ、ということ。
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(1)差別を捉える視点
「差別や偏見はヒトの属性である」という、認知社会学の到達点から問題は出発する。
「差別的行動や偏見に基づく思考は、人間が環境への適応のために獲得した正常な心理機能に根差していること、その機能はわれわれの意識を超えた形で働くため、これを統制することがきわめて困難である点を指摘する。」(「差別・偏見研究の変遷と新たな展開」池上知子、2014年)
我々は「差別は「悪いこと」」と教わり、「差別しない」ことを前提とした社会に住んでいることになっている。しかし、以上の指摘は、実際には、人は「差別する」方が自然なのだ、と言っていることにもなる。なかなか認めがたいことであるかもしれない。実際、この指摘や見解に対し、怒りの声を挙げる人権活動家の方もおられる。
私は「悪いこと」という認識と、「ヒトという生き物が環境適応のために獲得した属性のために悪いことをしてしまいがちだ」という認識は背反しないと考える。
例えば、差別と同様に人間が犯しがちな「悪いこと」として、暴力がある。
暴力衝動はおそらく人間の生存戦略として役立ってきたのだろう。
その一方で、社会を構成して安全安心な生活を希求する歴史家庭の中で、暴力は「悪いこと」として否定されるようになった。
現在の規範からすれば「悪いこと」を駆使して生存してきたヒトという生き物の特性を肯定しつつも、やはり社会と文化を形成して生きる選択をした中で、もはやすべきではない、と決めた「悪いこと」は頑張って排除するという弁別はする。そのような態度を取らない限り、現実に暴力や差別という「悪」を抑止することはできないだろう。
そのような見地に立ちつつ、冷静に、差別・偏見の認知社会学上の特性を見ていこう。認知社会学の研究は、我々が「悪いこと」として直視しなかった差別・偏見の現出過程の様々な特性を捉えている。その中でも悩ましい特性が、二課程理論とよばれるもので説明されている。
二過程理論では、 「人間の思考や行動を支える情報処理過程は、意識的に統制されつつ進行する過程と、意識的統制の及ばないところで自動的に起動する過程がある」とする。
さらにそのことにより、「偏見や差別も意識的統制が及ぶ状況のもとでは表出が抑えられるが、偏見や差別の認知的基礎となるステレオタイプ的知識自体は無意識のうちに形成されるため、意識的統制が及ばない状況にあるときは、往々にしてステレオタイプに基づく差別的言動が自動的に発出されてしまうことになる(Devine,1989)。」
(「何が社会的強制を妨げるのか-平等主義文化における蔑みと排斥-」池上知子、2015年)
「加えて、差別的言動や思考を個人が抑制しようとするほど、かえって、当該の言動や思考が生じやすくなるリバウンド効果も確認されている(Macrae,Bodenhausen,Milne, & Jetten,1994)。・・・・すなわち、スローガンや建前として差別撤廃や社会的強制が声高に叫ばれる社会であればあるほど、皮肉にもリバウンド効果としての差別的言動が増大することが示唆される。」(同上)
つまり、「私は良識ある人間であって、差別や偏見など決して持たない」と考え、実際に社会的公正に対して一定の見識を持っている人間もまた、意識下に差別や偏見を維持しているし、何らかの条件により、良識の下に溜め込んだ差別的言動や思考が自動的に発動するという。
自分の身近な仲間も含めた一般の人々が、とりわけ差別の話題を忌避するのも、ある意味ヒトの属性といえないこともない。
だが、しげのは差別の害悪を憎み、被害者をゼロに近づけていくための営為に、他には代えがたい意義を感じている。
詳細な展開は別の機会に譲るが、しげのは差別について、以下の構造認識と強度認識を持っている。
差別の構造認識
(1)差別は構造であり、主観では解消しない
(2)差別は多相的、交換可能
(3)差別は人間の本能に基づく特性に由来する
(4)差別の客観化は可能なはず
差別の強度認識
(1)エスカレートすると殺人の肯定にまで至る
(2)加害対象も隣人、親族にまで及ぶ
そのような認識に立ち、差別に立ち向かう時に有効と思われる戦略を4つ考えている。
戦略1:偏見形成を弱める戦略
戦略2:価値観変更をめぐる闘いとしての教育・啓発戦略
戦略3:ナショナリズムを可視化する戦略
戦略4:憎悪犯罪の力を削り取る戦略
その上で、新しい人権倫理の共有を展望したいと考えている。
「人権」は現在、形式的には世界の共通原理・規範である。一方で規範とされているが故に自明とされ、自明とされているが故の希薄さや曖昧さもあるように思う。ことに最近は、「人権」を否定的なものとして日常ではタブー化されつつある傾向があらわれている。また一方、その傾向に乗じて「人権は愚者と犯罪者の旗印」のように考えている人すらも顕在化している。人権概念の更新もまた、求められていると考える。
以下続く