「僕がビルを買ったワケ」一也blog

2007年スタート 
「PTA会長blog」としてスタートし、その後「個人」「不動産投資」「新宿44支配人」として継続

死って眠り?2017ver.

2017年11月23日 15時46分17秒 | 元会長
眠りは、死に近い現象か。

よく、精神を病んでいる人は睡眠薬を飲んで長時間眠ろうとする。
この世の概念で言う“現実逃避”、しかし理解出来るところもある。
眠りとは、“無意識”になることで、無意識になるということは、一時、全てを忘れられるから、悩みや苦しみから解放される。
普通の人でも、単純に疲れたら眠るが、そういう意味では前者は疲れまくっているのだろう(一般的に言う疲れとは違う種類だろうが)

死を考えた時に、一般的には“無”を連想する。
無とは、無意識。つまり、この世の現象でいうなら、失神や眠っている時。
ということは、死を恐れる、ということは、無意識を恐れる、ということになり、おちおち眠ることも出来なくなる。

厳密に言うなら、体は存在している訳だから、完全な“無”ではないが、
眠っている時は意識が無い訳だから、体の存在は意識していない。
ということは、やはりこの世の“生”という認識は、意識と体、その両方が揃って成立しているのだろう。

眠っている時は、体は存在しているが、意識が存在していない、なのでそのひとときだけは、体があるという意識もなく、生きているという概念も忘れている。
しかし、夢を見る時がある。それはつまり、無意識の中に、もう一つの意識があるということになる。
ここがポイントなんです。
夢は時に、この世の価値観では理解出来ない、不可解な世界を映し出す。
自分が空を飛んでいたり、意味不明なストーリーの主人公になっていたり。
これはまさに、体から離れた意識だけの世界であり、死後に近い現象と連想させられる。
なんてこというとどうしても宗教的になってしまうが、そこは誤解しないでほしい、私は宗教家ではない。

二つの考え方が生まれる。
一つ目は“希望”、もう一つは。。
確かに、この世の悩み、苦しみの多くは体が関係している。
何よりも、まず“健康”でなければ、仮にどんなにお金があっても心から楽しめない。
しかし、無意識の中の意識では、時に鳥のように大空にはばたく事も出来る。これはまさに“希望”であり、睡眠薬を使ってでも眠る価値がある。
ただ、そうなると、どうしてももう一つの考えが頭をよぎる。

この世の意識とは、基本、自らの意志で構成されるが、無意識の中の意識は、基本、自らの意志では構成されない。
この世でも、良い日があったり、悪い日があったりするように、無意識の世界でも、鳥のようにはばたく日もあれば、蛇のように地面を這いつくばる日もある。
そしてその全ては自らが培った記憶が根源となっている(基本的には)
歓迎される内容なら良いが、たまには思い出したくもない内容もあるだろう。
つまり、こういうことだ。
自分の意志で構成はされない不可抗力の世界ではあるが、その世界を作ったのは自分自身ということになる。
つまり世界を創るのは神だというなら、その世界の神は、自分自身ということだ。

こうなると、出来れば夢を自在に操りたくなるだろう、それが死後の世界だと思うのなら尚更だ。
そこで宗教家なら往々にしてこのように言う。悔い改めなさい、と。
確かに、夢を死後の世界に例えるなら、合点はいく。夢=本性、となれば、単純に心の綺麗な人が綺麗な夢を見る、となるからだ。
それはそれは皆、恐ろしくなって善行に励むだろう。いい夢を見る為に。
信じる者は救われます、なんて言われて多額のお布施もしてしまうかもしれない。なんだかんだ言って、皆、自分が可愛いから。
せっせと善行を行うのもいいが、それが死後の幸せの為ならば、結局は自身の保身のように思う、やれやれ、死後までこの資本主義の概念をもっていかねばならないのか。
それでも別に良いのだが、、もっと別次元な問題だと思いますね、真実は私にも分からないですが。

話はそれますが、前途した無意識の世界というのは、眠りに例えると然程怖くはありません。では何故死は恐れられるのか?
私の場合は、死というより、“死に方”ですね。単純に、その瞬間がどれほどの苦しみなのか、どれほどの痛みなのか。それでも一瞬ならまだ良いですが、最悪の場合、何らかの事件に巻き込まれ、じわじわ拷問されなぶり殺されることなんて想像すると足が震えてきます。
1988年に起きた、女子高生コンクリート詰め事件なんて、辛くて恐ろしくて未だに震えます。あまりの悲しさに涙が出ます。
こんなこと書いたら不謹慎ですが、せめて、いっそ一思いに逝かせてあげてほしかった。長時間にわたり拷問を受け、どれだけ苦しんだだろう。
彼女は、この記憶と共に死後を過ごしているとは到底思いたくない。そんな筈は決してない。

となると、やはり、全てはうまく帳尻が合うように出来ている、そう思う。そう信じたい。
私は宗教家ではないから、神や仏とは言わない。だが、我々の概念を超越する何かがある、それだけは確か。

私は、人より善行を積んだ訳ではない。人を傷つけたこともある。墓参りにも行ってない。神も信じてない。
宗教家なら、地獄に行くぞ、悔い改めなさい、神を信じなさい、と言うだろう。
本当に、日本人全員が“本気で”そうしたら、資本主義は崩壊する、何故なら日本人全員が全財産を寄付するから。全員が破産、つまり国が破綻。
極端な発想はやめて、“出来る範囲で”やりましょう、つまり“おすそ分け”?
私はおすそ分け研究員ではないから正確な比率は分からないが、おすそ分けとは、せいぜい良くて1割くらいではなかろうか。
つまり9割保身、1割寄付。1万円持ってる人は千円、100万円持ってる人は10万、、
ということは、9割地獄に行く。いえいえ意識の持ち方です?10万100万寄付する人もいれば10円、100円の人もいる、尊いお気持ちに変わりはありません?尊いお気持ち、というのは、その人一人一人の価値観、つまり一人一人の人間性であって、、
じゃ年金や税金も、その一人一人の尊いお気持ち、でいいのか、良くないよな。つまり我々は信用されてない、ルールを決めなきゃちゃんと出来ない不完全な存在。法律があり、警察や刑務所があるから抑止されているだけで、もしもその全てが無くなったら、、?犯罪し放題、そして多くの人は、地獄行き決定か。

だから私はこうして意識をしている。
答えは出なくとも、常に意識し、考えている。
そして健康に生きている今を、心から感謝している。
地獄に怯え、何かに委ねはしない。ただ、後悔と反省は日常茶飯事だ。

そんな中、今日も眠りにつく。滅裂尻切れ御免。
コメント
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