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あとがきの長文を書き記す前に、まず、はじめに、この旅に同行してくれた二人の仲間と相方、そして一緒に行かぬとも、想いを重ねてくれてた仲間達に、こころから感謝している。そして、白梅同窓生の方々にも、受け入れて頂き、貴重な時間を共にして頂いた事に、深く御礼を伝えたい。
同時に、慰霊に関心を寄せられる全ての方々に、この旅を一つの区切りとし、感じ取ったこと、全てをお伝えてしておきたいと思う。【幸多かれと願う、論争なき、一個人の想い】でもある。
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4月10日、11日の両日の慰霊の旅を終え、さまざまな事を感じ、整理をする事に膨大な時間がかかっていた。初めて行った白梅之塔上の壕や眞山之塔で感じた強烈な印象は、今でも脳裏から離れず、わたしのこころに重くのしかかっている。
今年の1月で丸2年を迎え、そして3年目の慰霊の旅が始まっているが、この間、神社参拝は欠かせずに行ってきた。慰霊と、神社参拝。もっぱら、プライベートな時間の外出先は神社が多い。これを続けて来た結果、誰に教わる事もなく、わたしの中でだんだんと肉体と魂の関係や、事象と目に見えない物との関係などに対し、より理解が深められていった。神社は、生きている者の願いだけをお願いしに行く場所ではなく、交信という神聖な場所でもあるだろう。
この交信についてだが、客観的に言えば、慰霊や参拝の中で感じ取っている事は、、情報の断片であり、それぞれにある情報のパーツをどのように組み合わせたら良いか、きちんと絵柄を合わせた上でこころの中に納める事、これが毎回課せられた課題でもある。天は、全てを教えてはくれない。わたしの場合、常に断片であり、それをもって思考している。
ここでの行いには付随するものが必ずあり、例えば慰霊であれば、同窓生との交流も含まれ、また参拝であれば、その参拝風景や宮司の対応に至るまでも含まれる。アンテナを巡らせていれば、感受する情報は多種多様で膨大ではあるが、一番大切な事は、感受した情報の整理なのだろう。
これらの情報整理、また組み立ての一つが、わたしが毎回書き綴ってきた慰霊の旅日記でもある。毎回訪れる度に、目に見えるもの、目に見えないもの、それぞれが変化し、また新たな発見や気付きもあった。それらを書き綴る事によって、目にみえない物の核心に近づくために整理をして来たとも言える。
同時に、感受した情報に触れ、自身がそれをどう受け止めるか、またどう受け止めるべきかに至るまで、すべてが内観作業に結びついているだろう。
わたしが慰霊を始めた時は、非常に傷心的な感情だった。生きている者の責務として、誰かがせねばという責任感も後押しし、亡き少女達への深い気持ちも拍車をかけ、わたしを何度も沖縄へと向わせた。
今回の旅で、もう7度目の慰霊の旅になる。始めてから2年3ヶ月目を以って、自身の旅を総括的に振り返ると、今は、わたし自身への試しと、その試しをもって成し遂げた後の続きにこそ、何かがあるのだろうに気付き始めている。
目に見えない物に対する崇敬するこころ。わたしの礎にはそのこころがあり、崇敬するこころを持つ事によって、大難を小難にと、ここまで寛容に導いて頂いたと振り返れば感じ入る。そして、目に見えるものと目に見えないものの相互関係においては、だんだん自身の中で、形成されている骨というか、そんなものが見えてきて、非常に深く納得出来るようになってきた。
【肉体を持っている、今を生きる者は、気付かない事を、多く抱えすぎ、生きているという事。】
【肉体を持たない、亡くなった者は、死後の気付きをもって、現世を見ているという事。】
【天は、両者を受け入れながら、肉体を持つ今を生きる人々に作用を与えているという事。】
『現世』 『御霊』 『天』 それぞれの狭間で、さまざまな情報を感受し、わたし自身整理に困惑する事もある。だが、時間がかかっても、組み立てながらこの整理を続け、自身が傷ついても、真正面から受け止めたいと想っている。そんな想いをより強固にさせてくれたのが、今回の旅でもあった。
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眞山之塔で感じた得体の知れないエネルギー体の正体も、あの時全く分からず、想像で想いを巡らせていたが、エネルギー体の正体は、なぜ、わたしにその存在を伝えてきたのか?まず始まりであるそこを整理する事が、今回わたしに課せられた最初の課題だった。
あの場所へ行くきっかけとなった、そもそもの出発点がある。それは、自決の壕で感じ取った日本兵が伝えてきた『少女達が行かねば、自分達は先には行けない。』という想いを感受した事だった。【死者が死者を労わり心を寄せる】と言う事。その想いに触れ、わたしは激しく涙した。戦争がもたらした悲しみの深さは、生存者だけでなく、死後も永続的に死者にも続いている事に、非常にこころが痛かった。同時に、壕の中で奉げた歌と共に、わたしのメロディーに重ねて歌を唄われた声が聞こえたのが、驚愕でもあった。わたしは、この時、はっきりとこの兵士の特徴を記憶したのである。
のちに訪れた白梅之塔で、中山きくさんとの再会で、彼女の方から壕の中で亡くなった日本兵の事を話し掛けて来た。あの時、わたしが感じた特徴を伝えると、確信をもって、きくさんは、『矢野兵長さんだわ、間違いない。』と答えたのである。学徒隊の少女達の間で、歌が大変上手な矢野兵長さんは、とても人気が高かったそうだ。
その旅から戻り、矢野兵長さんの事を調べていくと、書籍にも記されていた白梅看護学徒隊の生き残りの方の証言で、彼と行動を共にした鈴木上等兵さん、このお二人が、白梅之塔 上の壕付近で負傷の後、『学徒さんよ、しっかり生きろ。』と言い残し、自決をされていたという事実を知った。学徒隊の少女達から慕われた所以は、この優しい心根であっただろう。
それから月日は流れながらも、記憶に留まっていた白梅之塔 上の壕を調べる機会があり、場所が眞山之塔の裏にある事を知った。自決した場所からわざわざ壕に想いを寄せて来られた矢野兵長さんの亡き場所に、訪れなければという想いが募り、この旅の2日目に立ち寄ったのである。
自決の壕の中で唄った事が、そもそものきっかけではあるが、わたしが日本兵のメッセージと、容姿の特徴を感受しなければ、矢野兵長さんには辿りつけなかっただろう。きくさんにお話しする過程で、彼女の頭にすぐに浮かんだ特徴も、わたしが感受した内容のままだった。
自身が感受したものを組み立てし整理していく過程の中に、必然とそれらを確信的に導く気付きの機会に預かっている事が、これ一つとっても、よく分かるだろう。偶然ではなく、必然と、人と人は事象の中で、導かれ、結びつきを生んでいく。
わたしは、時間を掛けながらも、亡き一人の日本兵の導きによって、あの場所に辿り着けたわけだが、あの場所一帯に留まっているエネルギー体の存在を、わたしに知らしめたその理由が、次なる組み立てと整理の課題であった。
あの一帯を覆いつくす、得体の知れないエネルギー体が何なのか?その答えまでは、矢野兵長さんからの発信は皆無であり、感受しなかったのである。今想えば、矢野兵長さん自身、わたしに自身の想いを投げかけ、そして月日をかけて少女達の想いが消えた後、彼の想いも天に引き上げてもらったようにさえ、今は感じている。
あの場所に導かれた真意にある、矢野兵長さんの想いまでは感受しなかったが、彼の意に想いを巡らせていた。少女達を慰めるこころを持つ一人の若者は、おそらく戦場で苦難を共にした戦友にも、死後慰めてきただろう。
素直に言えば、滲んだ絵のように、全容があの場所では本当に分からなかったのである。ただただ、チベットのお鈴の音に反応し、薄くなったという事実のみが、目視出来ただけだ。
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帰宅後は、この謎解きに、わたし自身こころが奪われていた。この間も神社参拝を続けて来たわけだが、ここでようやく自身の中で断片の情報整理が終わり、整ったところである。
本文に入る前に、核心に近づいて頂くためにも、前もって説明しておかなければならない事がある。それが、『御霊』と『想い』の区分の事だ。この区分は、完全に一個人の感受の結果であり、科学的根拠など何もない。それを信じるも、疑うも、自由である。その上で、やはり告げておきたい大切な区分と思い、ここに改めて書き記しておこう。
人が亡くなった後のエネルギー体である『御霊』は、肉体から離れると、単なるエネルギー体の一つになる。ここには感情はなく、目に見えないエネルギー体の一つとなる。
『想い』は、エネルギー体ではなく、作用させる力となる。それを想念とも言うが、その想いが強ければ強いほど、事象に影響を及ぼす事が出来る。
亡くなったのち、御霊は、この世で生きてきた中で抱いていた想いと共に、肉体から離れる。人生の中で体験した経験は【事実=経験値】となり、これは、御霊に付随する。いわゆる魂が崇高な人というのは、何度も輪廻の中で、さまざまな経験をもって記憶している。
そして、経験の中で感じられる【想い】は、想念となり、死後一端御霊と分離される。生きている時は経験と感じた想いを切り離す事は皆無だが、死後はこのように分離される。
そして、御霊と想いは最初は一体的であるが、その中身は、御霊というエネルギー体に付随する形で想いが一緒についている。
そして、この御霊に対し、今を生きている残された人々がしっかり供養し、安心して天へ行けるよう諭せば、想いはこの世に未練を残さず、死を受け入れ、御霊と共に先を急ぐ。この先を急ぐ御霊は、想いと共に一心同体となって、上へと上がる。これがいわゆる成仏に当たる概念だ。
だが、供養なき場合は、この間逆の現象をもたらす。いつまでも上に上がろうとはしない。また、上がりたくても、生きている者が、死者を慰めねば、家族があっても無縁となる。いわば、放置されたまま、この世に浮遊し、この世に残るのである。
人間の肉体に寿命があるように、御霊というエネルギー体にも期限がある。この世に留まれることが可能なタイムリミットだ。それは最長50年。
50年も経てば、エネルギー体は、この星にいつまでも留まる事は出来ないが、想いだけがこの世に残ることが出来る。想いには期限がないからだ。御霊が、宇宙の一つとなった後、輪廻転生の機会に恵まれ、再びこの世で肉体に魂を宿す。それをこの星の創生と共に御霊はずっと繋がってきたのだ。
わたしが慰霊の旅を続ける中で、この『御霊』と『想い』の区分がある事を知った。これまでは、御霊と想いを一つとし認識し、お慰めする事が供養だと想っていたが、戦没者への供養においては、間違いであったと気付いたのである。
お亡くなりになって日の浅い御霊は、想いが御霊のすぐ傍に近くにある。御霊を慰めると同時に、近くにある想いも慰められるのだが、50年以上経過している死者の御霊は、この世にはもういないのである。あるのは想いであり、その想いが具現化し浮遊しているのだ。それを生きている者は御霊だと思い込み、供養している。最初にも書いたが、御霊は単なるエネルギー体にしか過ぎない。だからこそ、想いに向って慰めねば、慰霊の効果が生まれにくいのである。
わたしは、これまで亡き少女達や御英霊の情報の断片に触れているが、それは御霊ではなく、想いという事だ。想いが具現化させ、それを感じてるに過ぎない。
この想いへのお慰めは、一方的に自身の想いを抱え慰めるものではなく、彼らに想いを馳せ、彼らがどう想うだろう、どう話すだろうと想像しながら、こころで対話する事。彼らの想いの要求は、ここに尽きる。だからこそ、彼ら亡き戦没者の生きてきた軌跡のささやかなる情報も、大切になるのだ。彼らに語りかける時、そのささやかなる情報を内に秘め、対話する事が、彼らの想いを真にお慰めしているのである。
特に、陰惨な死や自決の場合、なかなか自発的に御霊も上がれず、当然想いも自発的に消えたりはしない。必ず、今を生きる者の供養の助けが必要なる。そう、生きている者の助けが絶対なのである。それを行えば、少し時間がかかっても、納得し、想いは完全にこの世から消えるのである。
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御霊と想いの区分を踏まえ、今回の核心に迫りたい。あのエネルギー体の正体は、ここに書く事そのものが、こころが痛み、気が非常に滅入る。全身を、拘束されているかのような重たさを、今でも感じている。遺憾ながら、発露したい。
その正体は、【玉砕した日本兵の悲痛な想念が生んだ新たなエネルギー体】だったという事。
想いがエネルギー体を作り出す事そのものに、わたしは理解に苦しんだ。信じがたい事だった。エネルギー体の分離によって新たに生まれる事は理解出来ても、想いが新たなエネルギー体を果たして生み出せるのだろうか。ここに、わたしは苦悩していた。
この苦悩の中で、紐解く過程で、一つ気が付いたのだ。それは、あの時、お鈴の音で確実に拡散され、薄くなり、最後にはあの場所から消えていったという事実。完全ではないにせよ、薄れた事は目視でも分かるほどだった。お鈴の音で反応するエネルギー体は、自然に宿したものよりも、むしろ一度は人間に宿った事のあるエネルギー体が反応を過剰に示すからだ。つまり御霊に限りなく近いエネルギー体だと、ここで気付いた。
だが、御霊とは完全に異なったものだった。彼らと関係が深いエネルギー体でありながら、言語など一切を伝えない闇のエネルギー体であったため、わたしはこの旅日記で『得体の知れないエネルギー体』と書き続けた。
御霊は、50年経過しているため、あの場所にはいない。御霊と感じる具現化された死者の想いも、あの場所で感受する事は皆無だった。そして、あの得体の知れないエネルギー体は空気中だけでなく、地面からも湧き上がるようにしてあの一帯を覆っていたのである。
湧き上がる場所が地面だと感じた事も、情報の一つとなった。玉砕された日本兵の遺体もしばらくは放置されただろう。遺体を焼けば、アメリカ兵に見つかってしまうため、あの一帯はしばらく放置されていたときくさんからも聞いている。日本兵、少女達、沖縄県民などあの一帯では、4000人以上もの方々が亡くなり、詳細の期間は不明だが、おそらく放置され続けただろう。
沖縄の気温では、3月ともなれば死者の肉体の腐乱の進行も激しい。あの眞山之塔一帯で朽ち果てた肉体は、自決の壕の中と等しく、土の一部に返っているだろう。それらの血肉を吸い、あの一帯の樹木が再生した。今や覆い尽くすまでに成長した樹木も、形状は居様さを感じずにはいられなかった。
あの場所には玉砕した日本兵は、死後互いに同じ兵士を想い、拡散されず、あの場所に永年留まり大きな塊となっていた事を感じた。そう、あの土の中だ。想いすら浮かんでいないのである。
今や立派な慰霊碑も立てられ、慰霊祭も行われているにも関わらず、比較すれば白梅之塔と大きく隔たりがある。供養のために訪れる人も圧倒的に少なく、また、遺憾ながら現地沖縄では、沖縄戦での悲劇もあって、日本兵に対する憎悪や嫌悪の想いも、根深くある。
そんな環境の中で、玉砕した100人の日本兵の想いは互いに連帯を生み、永年とどまり続けた。彼らの残した真意に近づける供養もなされなかったため、想いは、強烈な憤りの念となり、この世に向けた最後の訴えとして、あのような負のエネルギー体を自ら発生させて行った事に、ここでようやく辿り着いたのである。
やはり、この作用を生み出してしまった根本の原因は、彼らの真意を見てこなかった、肉体を持つ生きている我々である事に、ここで深く感じたのだった。ああ、なんと言う事か、慙愧の念は頂点になっていた。
その原因こそが、遡れば沖縄戦の悲劇に尽きるだろう。本来、救うべき同胞を、自決へと追い込んでしまった当時の価値感。違和感なく美徳として受け入れられていた大儀ある死への意義、この死生観にこそ、本土で生きてきた『当時』の人々が抱いていた価値感だっただろう。
だが、戦争に負けた日本は、戦後教育の中で、過去の反省として自虐史観を植え付けられて来た。一方的に勝戦国に裁かれ、日本兵は戦犯とし処刑された。そしてアメリカの占領下において、過去の日本人の当時の価値までもが、完全に否定された。
加えて、アメリカに占領された沖縄県も、1972年に本土へ復帰するまで、愛国心が蘇られぬよう、アメリカに従順になるよう教育を受けてきた。こうした歴史があり、戦争体験者の沖縄県民の多くは、現在も被害者という立ち位置の下で、沖縄戦を戦った日本兵への憎悪と嫌悪感を深めて行き、結果的に、彼らの存在そのものが、鬼畜のようにせしめられてきた。
沖縄県民以外の本土の人々も、沖縄戦の悲劇に関心がなく、今や何のためらいもなく観光地として気軽に沖縄へ行く本土の人間の無関心さも拍車を掛けただろう。
死者は、黙って、戦争を体験した生存者と、戦後戦争を知らず生まれて来た者の両者の気持ちに触れ続けて来たのだ。日本兵の亡き人々の純粋な想いは、一般人である多くの沖縄県民を戦争に巻き込んだ事を、悔やんでいる。それは、あの矢野兵長さんから感受した、まぎれもない真なる想いだ。沖縄県民への申し訳なさと、そうせざるを得なかった事情の言い訳も出来ぬ中で、黙って己の想いを殺し、我慢してきたのだ。
だが、彼らの慎ましくもあるその想いとは間逆に、今を生きている日本人は、彼らの存在を正しく受け止めようとはしなかった。亡くなった日本兵は、本来感謝をもって慰められるべき魂なはずなのに、この地では、明らかに遺恨をもって、慰められては来なかった。
今や、沖縄戦の悲劇として慰められてきた亡き学徒隊の少女達との落差は、現地に行けば、痛いほど感じられるだろう。彼らは、この日本を護るために死んだのに、本当の真髄を理解してもらっていない事を知れば、どんな想いに至るのか、それは肉体を持っている今を生きるわたし達でさえも、安易に想像出来るだろう。
戦後67年目を向かえるが、この間、亡き兵士達は、負い目をもって、今を生きている我々の現世を見続けてきた。だが、我々はまっすぐ、彼らを見ようとはして来なかった。この落差こそ、亡き日本兵の無念さを生み出し、歳月をかけて、無念な想いから、強固な憤りの塊へと肥大化させ、新たな負のエネルギー体を放出させていたのだった。
彼らがこの国を護るために犠牲となった命に対し、わたし達は、どれほどの仕打ちをしてきたか、想像もして来なかったのではないだろうか。嫌悪感と無関心さ。肉体を持った人間の醜いこころ、気付かないこころによって、結果的にあのような現象をも生み出してしまったのである。
死者の無念極まりない想いから放出されたエネルギー体は、本当に闇だった。あの場所で、わたしはこのエネルギー体の正体を、感受の中で二つを想像した。一つは、日本兵の想いが、負のエネルギー体を呼び寄せた事。そしてもう一つが、日本兵の無念さから発生した事。あの時、わたしの中で二つ浮かんだが、あの時、結局どちらか分からなかった。
だが、帰宅後に日々手を合わせ、整理し続け、この一つである事に達観したのである。ここで強烈に、自身が呼ばれた意味を感じ取った。ああ、実に遠回りだったが、過ぎ去った時の中で、振り返れば6度沖縄の地に入っている。ここに行き着くまでに、その真意に近づけるための情報を、わたしは会得して行ったという事なのかもしれない。
戦後の日本は、肉体を失った彼らの存在を否定し、戦前と戦後を分断して都合の良いように解釈し、社会を形成して来た。当然ながら、目に見えないものに対する崇拝する気持ちも戦後薄れ、その結果、彼らの存在への否定にも繋がっている事は確かだろう。
加えて、生きている者は、今の価値を価値と定め、過去の価値に想いを巡らせても来なかった。軍国主義の悪い印象だけを語り継ぎ、否定を助長させ、結果、彼らの想いを深く、深く、生きている者は傷つけて行ったのである。
止むに止まれぬ憤りの念が、あの現象を生み出してしまったのだ。重たさだけを痛切に感じ、核心にさえ近づけさせなかった現地。この2ヶ月近く、この事に向き合って来たが、玉砕した100人もの死者の憤り、その想いは、あの場所で相当根深く、根を張り巡らせている。
あの現象に触れてしまうと、憲法9条の下で戦争を放棄し、今、平和である我が国は、どれほど表面的であるかも気付く。根っこは、この有様だ。あのようなエネルギー体があっちこっち生まれていては、現世の今を生きている我々に、さまざまな影響があって当然だと感じている。自分達だけの幸せを追い求めても、目に見えない大きな力の作用によって、阻まれる事は、必然として生まれるだろう。
戦前、戦中、戦後。どれ一つとして分断などされていない。みな、一本の線で繋がっているのだ。その事を、意識せず、突然生まれてきた新しい人種の如く、今を生きている日本人に対し、御英霊の想いは、わたし達の想いにも触れ、今なお、じっと見ている。
我々が、彼らの生きた軌跡を否定するのであれば、彼らも、我々を否定するだろう。
『一体、戦後の日本人は、何をやってきたんだ。』と。
あの得体の知れないエネルギー体は、わたし達に向けた、彼らの最後のメッセージでもある。
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わたしは、この旅を終え、次の段階に入ったと感じている。白梅之塔での少女達への慰霊を通じ、繋がっていた次のステージ。まだ、断片にしか過ぎないが、『現世』 『御霊』 『天』との関係において、移ろう事象に身を置きながらも、感受を続け、粛々と慰霊をこれからも続けて行きたいと思っている。
日本国のために戦い、自己犠牲の下で亡くなった人々の想いを、報いたい。
わたしは、日本人として生まれ、日本人として死ぬのだから。
【追記】
この長文日記を最後までお読み下さり、本当に有難うございました。あとがきについて、書くべき内容に対し、大変思慮しましたが、奥深くまで掘り下げて書き綴りました。より大勢の方々に、戦争で亡くなった人々に想いを馳せて頂きたいという願いが根幹にあるからです。
今、白梅之塔は幸いにも、青山繁晴さんのご講演などによって、この悲劇を知り、慰霊のために現地を訪れて下さる方が年々増えて行きました。白梅同窓会会長の中山きくさんも、この事を大変喜ばれ、また慰めを持ち寄るこころに、少女達の想いも、今は浄化されています。
ここに行き着くまでに、相当の時間を要しましたが、この現象こそが、慰霊を通じ、亡き少女達が今を生きるわたし達に示された答えであります。
この旅に関わった全ての皆様に感謝申し上げ、今年も、台風が近づく中であっても、6月23日の慰霊祭のために、沖縄へ行って参ります。