心人-KOKOROBITO-

亡き先人と今を生きる人に想いを馳せて
慰霊活動や神社参拝で感じ取った事を書き綴った日記と日々の雑感コラム

事象と正義

2012年02月06日 | 思索
事象は平面ではなく、喩えるなら球体である。
そこには、平面のような裏と表という区分ではなく、
球体に存在する裏と表は、一種入り乱れ線引きも人によって変わる。
この線引きの価値が正義である。

正義を樹木で喩えるならば、
個人の持った資質の上に育てられた思想哲学によって、
枝葉、果実、その大きさや色、形の細部に至るまで
人によって価値の意味と数が異なる。

人が議論するうえで、相手の根底にある正義をまず見れば、
その人が何に価値を持って、発言しているのか、
直感的に分からぬ共、時間を掛け、突き詰めれば答えに気づく。

しかし、人はそこまではあまりしない。
突き詰める作業を、そう多くはしないのである。
なぜなら、物事を立体的ではなく平面的に捉える傾向が強いからである。


事象を球体で喩えたり、正義を樹木で喩えてみたが、
事象を動かす事が出来るのが、「自然」と「人」。
正義を発揮出来るのも、また「人」なのである。

発揮される正義は、何も自分だけが持っているものではない。
相手にも保有している正義がある。

この正義の数や種別によって、異なった意見であっても、
互いが近く感じる事がある。
なぜなら、互いが平面ではなく、立体に捉えているからである。

この捉え方。
この差異が過分に影響し、
正義の数や種別が、少ない人と多い人との間には、
建設的な議論には決して至らないのである。
それは厳然たる必然の事象でもある。

「人」である、わたしたちが、目的をもって、
動かしている球体、つまり事象は、
当事者でありながら、
自分以外の人の存在の方が大きく、
その中で、ささやかなる正義を発揮し、
自分以外の人の存在の在り方を
本能的にとかく線引きをしがちである。
しかし、この線引きこそ本能的ではなく、
思索的でなければならない。
なぜなら、新たな正義が生まれないからである。

このような行いの中で、
「人」は、互いに引き寄せられたり、また離れたりする。

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