心人-KOKOROBITO-

亡き先人と今を生きる人に想いを馳せて
慰霊活動や神社参拝で感じ取った事を書き綴った日記と日々の雑感コラム

体験談としての見解

2012年04月18日 | 雑感
成人に至るまでの、庇護の下での成長期に、わたしの両親は、以下のやってはいけない10カ条のしかりを全て行いました。

■ やってはいけない10カ条

□ 感情的にしかるのはダメ
□ 子どもの言い分を聞かずに、しかるのはダメ
□ くどくどといつまでもしかり続けてはダメ
□ 自分の都合でしかってはダメ
□ 両親が一緒になってしかるのはダメ
□ 誰かと比べてしかってはダメ
□ 昨日と今日で言うことを変えてはダメ
□ 全人格を否定する言葉や子どもを突き放す言葉は、使ってはダメ
□ 昔のことまで引っ張り出してしかるのはダメ
□ 愛情のない体罰はダメ

今、その当時しかっていた親の年齢となり、この経験に対し思いを巡らせることもしばしばあります。

わたしは、幸いながら性格的に明るく忍耐強さを兼ね備えた資質であったため、上記の10カ条にも耐えられたのかもしれません。また、これらのしかりを受けた事によって、大人の顔色を見る、状況を察知する、自立心を持つなど成人になった時に役に立つ能力を、幼き頃から自然と鍛錬していた事に気付かされます。

このしかりの経験から成人になるまで、親をこころから嫌っておりましたが、働くようになってから親の対応もまた変化しました。一人の大人として扱われるようになりました。これまで受けた心の傷もありましたが、血縁と言うものは時間が経てば、ある程度の痛みを浄化させる作用もあるのだと自負しています。

わたしはこれらのしかりによる幼児体験から、これまで精神的に親に甘えてきませんでした。そして独立しても、精神面、金銭面共に自立し、今でも甘える事をしていません。いつも親に何かを頂く時は、必要だと思った物は有難く頂き、必要でないものは、丁重にお断りしています。

今から15年前ぐらいでしょうか、親はよくわたしにこんな事を言っていました。
「○○さんのところは、いつも娘さんが孫を連れて遊びに実家に来ているのに、あんたは寄りつかへんなぁ。そういうところが可愛げがない。」そう言われたわたしは、微笑みながらも、気分は宜しくありませんでした。

しかし、最近ではこんな事を言っていました。
「○○さんのところ、大変みたい。ご主人が亡くなり年金生活の一人暮らしなのに、実家に来ては孫を連れてご飯を食べ、米や野菜なども持って帰って、あの奥さんも切羽詰まっているって愚痴こぼしてたわ。以前、あんたに寄り付かない事を愚痴ったけど、今は、たまに来てくれ、あれが欲しいこれが欲しいって言わないから、本音を言えば助かってるねん。ほんま、甘えすぎるのもいい迷惑。あの奥さん、子供にたかられてるからなぁ・・・。」

母の発言の変化には、社会情勢も過分にありますが、彼女は少し気付いたようです。血縁に甘えすぎるという事がいけない事を。母から言わせれば、わたしのこれまでの非情な対応も、他者の子供の素行と比較し、精算された様子でしたが、このように、今でもこの10カ条にある誰かと比べる視点は、年老いてもまだまだ健在であります。

また、わたしの方は、母が大きな病気をした事によって、自分の甘えのなさに気付き、少しは母に寄り添うようになりました。自分で出来る事を今は黙ってしています。しかし、直接的な甘えは今も行っていません。金銭も物も要求致しません。両親が生きている事を時折確認し、何かあれば実家に出向き、盆暮れ正月に挨拶に行く程度です。わたしの方も、甘えのなさを変えることは、なかなか出来ていません。

しかし、こんなわたしの魂の根幹を育ててくれたのは、この両親です。親にとって甘えない可愛くない子供ではありますが、この甘える事をしない精神は、社会においてのちに役に立っています。理不尽な幼少期も、社会に出て有益に繋がっている部分を、今では感じています。

親子関係の画というものは、時代によって変容します。そもそも、この10カ条は子育ての理念として好ましい事は確かですが、全否定されるべきものでもありません。子供が自立心を早期に持ち、反面教師として親とは異なる人物像を目指し、そして独自の自己防御を編み出す能力を育むことは、この10カ条の影に埋もれた僅かな光なのだろうと改めて感じています。

庇護の下の時期というものは、自立するための助走期間にしか過ぎません。幼少期は難しいですが、高校生にもなれば、理不尽なしかりを親から受けたとしても、現実社会に埋もれるリアルさを早期に体験しているとのちに解釈出来るでしょう。それを子供の頃に体感させる事は、絶対的な悪ではないのです。そう子供が捉える事が出来れば、このしかりも有益に繋がるのですが、全ての子供がそう解釈は出来ません。

その理由に、魂そのものの生命力に強弱があるからです。勝気な子供、大人しい子供、知能の差ではなく、生きる力の強弱が生まれ持ってあるからこそ、理解の差が生まれるのです。強い子供は、理不尽さに逆らいます。しかし、弱い子供は、理不尽さに飲まれてしまいます。

この部分を見誤った時、悲劇は起きやすくなります。魂そのものの生命力が、もともと弱く生まれてきた子供には、この10カ条のしかりをすれば過剰な反応を起します。最悪の場合は、居場所を失い自ら命を落とすこともなくもありません。ですから、子供の魂そのものの生命力に注視し、強弱をまず察知する事が、親に求められる一番大切な部分のように思います。子供を知る事の優先順位は、魂にある生命力の強さや弱さです。子供の個性や能力や性格は、環境によって変化しますから、その後でも十分でしょう。

先にも書きましたが、わたしは幸いにも持って生まれた生命力が強いゆえに、明るく忍耐強さを兼ね備え生まれてきましたが、そうではない魂の子供には、このしかりは耐えがたきものになる事は間違いなく、屈折した人格を成人になっても引きずりかねないでしょう。子育ては、やはり人の人生をも左右させる重要な部分である事は、確かだと強く感じております。


親は、自分の子供の事を、全て理解出来なくても良いと思います。
分からなくてもいいでしょう。知らない部分があってもいいでしょう。
しかし、絶対に知っておく必要なものがあります。
それが、子供の魂の強さや弱さです。
その上で、人を見て法を説けば、このしかりに誤りも生まれにくくなるでしょう。

昨今の悲しい子供の虐待死亡事件も耳にしますが、
子供が庇護の下で頼れるのは、親しかいません。
若いお父さん、お母さん、見るべき大切な部分をご理解の上で、
何卒、子育てに励んで頂きたいとこころから願っています。

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