城と歴史歩きを楽しむ

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近江・園城 土塁と横堀で囲まれた方形の主郭遺構がよく残る見学しやすい土の城

2019-10-04 | 歴史

園城(おんじょう)は滋賀県蒲生郡日野町川原にあります。川原地区と原地区の中間点の丘を利用し、主郭は土塁と横堀で周囲を囲み西側に虎口を設け、虎口を守るように西側に小曲輪がもうけられていました。
 永源寺周辺の小椋を本拠とする小倉氏が南に勢力を拡大し、日野町佐久良に佐久良城を築き、日野の蒲生氏と対峙した時に小椋と佐久良の中間点に築いたのが園城と思われます。いわゆる「つなぎの城」でしょうか。
 今回は「図解 近畿の城郭Ⅱ」を見学資料(以下資料)にして振角卓哉氏作図の縄張図を参考にしながら見学しました。


園城 入口に手作り風の城址看板がある。城内には随所に遺構の表示看板もある。
付近は農村地帯で狭い農道しかないので、西に160m程にある大きな溜池の駐車スペースに車を停め、少し歩いて城址看板のある入口から害獣フェンスのゲートを開けて城址に向かいました。ゲートから遺構までは50mもないくらい至近です。
 看板には、川原園城々跡となっていました。資料によれば通称「城ノコシ」「城山」と呼ぶそうですが「城ノコシ」は「城の古址」ではないかと想像しました。
※ゲートは帰りに閉めるのではなくて、入ったらその都度閉めましょう・・・地元の方にお聞きした注意事項。


園城 主郭Ⅰの南側土塁⑧は崩落によって、ほぼ失われていました。
 東側の土塁はわずかに残っていましたが、資料によると後世の土取りでかなりの部分がけずりとられていました。主郭Ⅰの南側土塁は資料によれば崩落により失われたようで、元は主郭Ⅰの四周に土塁が有ったようです。
 主郭の周囲には横堀が巡っていました。多少の風化はあるでしょうが、四囲の横堀遺構がほぼ確認出来ました。横堀は主郭の切岸の高低差を稼ぐための構造で、主郭土塁と組み合わせて10mを超える切岸になっていたようです。


園城 登城路を登ると、すぐに遺構が眼前に迫る
 主郭を守る横堀A、C を堀を穿ってできた土塁、西側の小曲輪Ⅱなどが一挙にみえてきてワクワクしました。ここから見ると主郭の切岸は10m位はありそうです。


園城 主郭Ⅰ 内側から虎口①を見る。虎口を出ると横堀A、その向こうに小曲輪Ⅱがある
 虎口①は門などの設備があったかどうかは、表面からはわかりませんでした。西からの蒲生の兵に備えたとすれば、小曲輪Ⅱが虎口①を守っていたことになると考えましたが、どうでしょう?


園城 主郭内の井戸② 長方形の井戸で水が湛えられていた
 多くの城郭遺構では谷あいの水の手以外だと、今も水がある井戸は案外少ないように思いますが、この井戸はたっぷり水が有りました。丘の上の立地なのにどこから来た水なのか? 不思議に思いました。
※資料によると概略図の⑥も水場Wとなっていますが、現況は凹みはありましたが水が見えませんでした。


園城 良く残る主郭Ⅰの北側土塁を西から見る 
 主郭を取り巻く土塁のうちで北側の土塁がよく残っていました。遺構の殆どは草に覆われていましたが、この土塁上は写真のように、草もなく歩きやすくなっていました。


園城 馬出状遺構を内側から見る。現地看板の立つ虎口③を通って外に出ると平面④がある。
 馬出状遺構の看板がありました。一般的には外側に馬出を備えたと思いますが、資料によれば④の部分も含んで⑤の部分は後世の耕作地として使われたようですので、改変があり馬出と断定できず「馬出状」となったのかな?と思いました。
 写真の右手の土塁の西側にも虎口状の地形があるので、ヒョットするとそこも含めたものかもしれません。



園城 小曲輪Ⅱの西側には横堀Cが回り込んできている堀切⑦がある。土橋は往時のものか? 外側に害獣フェンス
 主郭Ⅰの西側には小曲輪Ⅱがありました。曲輪内には堀切らしき遺構もありましたが、雑木と草に埋もれていて明確ではありませんでした。
 小曲輪Ⅱの西側には堀切⑦がありました。この堀切はぐるっと回って横堀Cにつながっているようです。現状は堀切を渡る土橋状の地形が見えますが、往時からのものかは表面観察だけでは判断できませんでした。この先に遺構はなさそうですが、害獣フェンスで進めませんでした。

入口の案内板には、滋賀県の平成20年の里山リニューアルの事業として整備したと書かれていました。その後の整備がどの程度の頻度で行われているかは分かりませんが、残念ながら最近は整備活動が行われているようには見えませんでした。
 とは言うものの、山城大好き人間にとっては何の問題もない状態でした。

農道から至近距離での遺構見学が出来、一部の改変があるものの遺構の残りもまずまずで、行ってよかった園城でした。