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伊賀・福地氏城 見事に残る、主郭の土塁と大手の石垣が見どころ。今は芭蕉公園として整備されている

2019-10-24 | 歴史

福地氏城は三重県伊賀市柘植町の名阪国道沿いの伊賀名阪SA近くにあります。
 以前は個人所有地だったようですが、今は芭蕉公園として整備され、駐車場やトイレが完備し見学しやすくなっていました。
名阪国道(R25)の工事で主郭の南東部が削り取られ土塁や曲輪が一部欠損していましたが、完存部分が多く、当地域の遺跡の保存への関心度が高いことをうかがわせます。
 福地氏は、南北朝期には伊賀の有力国人として活躍していたようです。
天正十九年(1581)信長の伊賀討入りでは、案内者となり地元では裏切り者とされ、天正十年(1952)本能寺の変で信長没すると地元の伊賀郷士に逆襲され一家離散したとされます。
 地図で福地氏城の位置を確認すると、伊勢方面から加太峠を越した伊賀の入口にあたる場所と分かります。この状況で信長の大軍を福地氏が受け止めるのは、まったく不可能と考えられるので、案内者(先手)となって生き延びる道を選んだのは正解だったのではないかとおもいました。
 今回は「三重の中世城館」三重県教育委員会1976(資料)を片手に出かけました。


福地氏城 駐車場に立つ案内板の測量図  抜粋して加筆   
 一般的には福地氏城と呼ばれるようですが案内板では福地城となっています。分かりやすいので、この図に基づいて見学しました。駐車場から④と⑩の曲輪の間の城道をを進むと④の西側の石垣が見えてきます。

福地氏城 測量図には表示されていない④西側の石垣です。ブルーシートが掛けられ一部に崩落が
 測量図ではこの部分は土の切岸になっているので、どうやら芭蕉公園の施設建設時に石垣を積んだようです。
よーく見ると、崩落した場所、崩落してない石垣の裏とも「裏込め」がなさそうです。低い土留めではない場所なのに地山に石垣を並べてあるだけの様に見えます。やはりキチンとしか工法を取らないと「耐久性に問題あり!」ですね。


福地氏城 表門の石垣 発掘で門扉を受ける中央の礎石が出て門の存在が確認された
 福地氏城は信長軍の侵攻後、信長方の武将が入ったので、石垣が福地氏時代から有ったかどうか?資料では確認できませんでした。写真で見ると表門両側の石垣の先端部が欠けているように見えますね。廃城時の破城の名残かもしれないなどと考えるのは、想像を膨らませすぎでしょうか。


福地氏城 測量図 イの主郭を取巻く堀。  主郭北西下を  南西から見る。この季節、藪漕ぎが必要だった
 主郭北西下の曲輪②は土塁囲みでした、②からイに降りて、⑨、⑧、⑦、⑥と進みました。堀イと⑨の面には段差がありました。⑨での藪漕ぎは少しでした。この辺りから主郭を見上げると、福地氏城のスケールを感じました。


福地氏城 曲輪⑧の石積井戸 2m位の深さが残るが水は見えない。奥の一段高いのは曲輪⑦
 主郭の北西隅にも井戸がありますが、測量図によると曲輪⑧にも井戸がありました。直径1mにも満たない小ぶりの石積井戸でした。ここまで藪漕ぎしてきた甲斐がありました。 ※季節を選べば藪漕ぎはないかもしれません。
◆藪漕ぎ中に井戸に気付きましたが、うっかりすると落ちたかもしれないと冷や汗が流れました。行かれる場合は近づいたら充分に注意して進んでください。細くて深いので、一人だと出るのが難しそうだと感じました◆
この先の⑦と欠損部の⑥まで見学しました⑥の先には名阪道が走っていました。


福地氏城 虎口状地形 ロ 曲輪②の東下 曲輪⑨へ入る虎口状地形を北から見る 右手上が曲輪②
 
測量図では立体感が掴みにくいのですが、左手のL字型土塁と併せて見ると虎口ではないかとおもいました。今は北下に道路が走っていますが、往時は主郭を取り巻く曲輪への出入り口だったのでしょうか?


福地氏城 主郭土塁 南東隅部分を南から。 右側は道路工事で土塁が欠損した
 福地氏城の主郭土塁は高さ4mほどで四囲を取り巻いていますが南東隅だけは道路工事で一部が欠損していました。表門の部分で主郭への出入りが出来ますが、その他の出入り口、虎口はありませんでした。主郭内の北端には土塁上にあがる細い階段がありましたが虎口とは言い難いと思いました。土塁が堅固なだけに、ONE虎口は気になりました。

主郭には公園化により歌碑、石碑類が多数建っていました。曲輪④には公園関連施設が建設されていました。多少の改変があるにしても、多くの遺構は完存と言える状態で、見どころの多い福地氏城でした。