上手向城は岐阜県恵那市山岡町上手向にあります。上手向は「かみとうげ」と読みます。
大河・木曽川の支流小里川沿いの古くから開けた場所にあり、交通と軍事上の要衝として大きな市場も出来て栄えた土地とされます。戦国のはるか以前から当地を治めたのは勝氏と伝わり、戦国時代には岩村遠山氏の配下として強固な地盤を築いたとされます。
今回の資料は(1)「信濃をめぐる境目の山城と館 美濃・飛騨・三河・遠江編」宮坂武男編2015 と 岐阜県中世城館趾総合調査報告書第3集 加茂地区・東濃地区 2004 です。
※近隣の下手向城の記事は→こちら
上手向城 西側の谷筋に居館があったか 小里川に注ぐ沢筋の水に恵まれ豊かな土地だった
上手向城の周囲には、いまも多くの城址があり良好な遺構が残されています。戦国期には織田・武田の境目の地として帰属が目まぐるしく変わった時期があったようです。
農業環境改善センターの駐車場に車を停めると、すぐ北に城址の山が見えていました。城址への道は何本もあるようでしたが、今回は西側の切通へ向かい北進し、城址方向へ向かいました。
上手向城 城ヶ峰と隠居峰に遺構が残り城ヶ峰南麓に寺院があったとされるが今は山田となっている
城ヶ峰と隠居峰の構築時期と役割には諸説があるようです。資料(1)では城ヶ峰の補強で隠居峰が築かれた可能性を述べておられ、資料(2)では隠居峰の完成度の高さから隠居峰が居館、城ヶ峰が詰城と言われるのも一概に否定できない(要検討)とされています。
上手向城 切通と城ヶ峰の間の西尾根 最高所① 北から
城郭遺構がないかと思って見学しましたが、遺構はなく自然地形でした。
上手向城 西尾根と城ヶ峰の間の尾根を断ち切る掘切? 切通? 南から
①のある西尾根と城ヶ峰を結ぶ小尾根には写真のような掘切状の地形がありました。近年は切通しの道として使われていたようですが、往時からあったとすれば掘切の役割があったのではないかと想像しました。
上手向城 城ヶ峰の最高所③を北西下から見る
掘切地形②から尾根を登ると城ヶ峰の最高所③へ出ます。途中の尾根筋には曖昧な地形があり③の周囲は武者走り状の平場が四周を取り巻いていました。
上手向城 城ヶ峰の最高所③の南東下の土坑④ 南から
土坑④は井戸とされています。今は水は見えませんが往時は水があったのでしょうか? 土坑を井戸と決めつけるのは?ですので、あえて土坑としましたがどうでしょう。
上手向城 城ヶ峰の平場⑥の北辺の土坑⑤ 手前に⑥ 奥上に④のある平場
城ヶ峰の南尾根は最高所③から見ると南下に二段の平場がありました。平場⑥の北辺には土坑④よりも大きな土坑⑤がありました。資料(1)では「井戸は天水溜」としていました。今は水は見られませんでした。
上手向城 隠居峰の平場⑨の東側の堀地形と東辺の土塁 西から
城ヶ峰と隠居峰の間は現在は耕作地となっていますが、往時は屋敷があったという見方もあるようです。
隠居峰には大きな平場⑦があり北辺の一部に土塁地形が残っていました。このあたりが居館があったとされる場所でしょうか。
平場⑦の東側には興味深い地形の平場⑨がありました。写真手前の平場⑨の向こう側に尾根を掘り込んだ幅の広い堀状地形⑩があり、その奥には尾根の掘り残しと見える土塁⑪がありました。⑩の堀状地形は小屋掛けできそうな面積がありました。
上手向城 平場⑦と平場⑨の間の通路⑧ 写真はチョット無理でしたね
平場⑦と平場⑨の高低差は少ししかありませんが、⑧の部分が通路になっていたようでした。どちらの平場も戦後の空中写真を見ると耕作地だった可能性がありそうですので多少の改変があったのではないかと思いました。その後植林が行われて現状のようになっています。
上手向城 隠居峰 東端部の掘切⑫ 南から 左手上に土塁⑪
隠居峰の東側の尾根を断ち切るように掘切⑫が設けられていました。この掘切も後に北側の谷の耕作地への切通し道として利用された可能性がありそうでした。
上手向城は小里川と街道を見下ろす立地で、そこには繁盛する市場もあったとされ、戦国の戦乱に巻き込まれるまでは、安定した豊かな地があったのではないかと想像しました。隠居峰と城ヶ峰の関連など興味深い異説を考慮しつつ楽しく見学ができよかったです。