井ノ口城は愛知県豊田市井ノ口町にあります。足助の町の西部にあり、城域南下を巴川の支流朝日川が、東下を井ノ口川が流れ要害となっていました。城域と朝日川の間には主要な旧道(飯田街道)通り、北からは月原(わちばら)からの道が通じていて街道の要所を扼する位置に所在したと思われます。
築城は戸田右衛門尉忠勝、鈴木重政などが伝わリますが詳細は不明とされます。
今回の参考資料は(1)「足助の中世城館」足助町教育委員会2001 (2)「愛知県中世城館跡調査報告2」愛知県教育委員会1994 (3)「史跡散策 愛知の城」山田柾之著1993 です。
井ノ口城 153号と巴川沿いの岡崎への道は後世の車の道
往時は岡崎方面からの道と旧道(飯田街道)との合流点は井ノ口よりも西側にありました。現在は車の道が開発され153号と岡崎からの巴川沿いの道が合流する地点を追分と呼んでいますが、往時の追分は旧地名に残る月原と飯田街道の交わる、城域の東側付近ではなかったかと思います。
井ノ口城 Ⅰ郭-Ⅱ郭b間の大堀切が見どころ
大堀切①は堀底道になっていて城址の北側に通じる切通道Aとしても利用されていたようです。Ⅰ郭a-b感にも道が残っていて、ヒョットすると往時はⅡ郭の西から北を巻く道はなかったのかもしれないと想像しました。
Ⅰ郭とⅡ郭は後世の耕作地として利用されていたので、城郭遺構としては殆ど残っていませんでしたが、曲輪の形状はほぼ残っているのではないかと思いました。
資料(1)でも述べられていますが、曲輪の周囲には帯曲輪・腰曲輪などが在った可能性がありそうですが、耕作地として利用された部分も多いので城郭遺構と後世の改変・造成地形との区別は難しそうでした。
井ノ口城 城址南西下の集会所からの道がある 右側に旧道(飯田街道)
見学は集会所に車を停めて整備された見学路を登りました。道の途中に平成27年の道の整備標柱が立っていました。
井ノ口城 大堀切① 南から 右手にⅠ郭b 左手にⅡ郭 見どころです!
整備された道を登り切ると見どころの大堀切が現れます。堀底道Aは城址北側の山下まで整備されていました。
井ノ口城 Ⅱ郭 南から 近年になって放置されたようで、雑草天国!
Ⅱ郭の南側斜面は腰曲輪のように見えましたが、耕作地として改変を受けている可能性もありそうでした。Ⅱ郭の曲輪面は雑草天国でしたが雑草の丈が短く、見学可能でした。
井ノ口城 Ⅰ郭aーb間の道B 南から 右手にⅠ郭a 左手にⅠ郭b
道Bは雑草の中に踏跡が残っていましたがⅠ郭の曲輪面a・bは背丈の高い雑草天国で踏み込むことが出来ませんでした。道Bは北側山下に続いていましたが、北側道路付近では改変で道が失われているようでした。
井ノ口城 Ⅰ郭a東辺の切岸と腰曲輪地形② 南から
Ⅰ郭の周囲には平場が何段も有りましたが城郭遺構と後世の畑地との区別は難しそうでした。写真のⅠ郭a東辺の切岸と腰曲輪地形②は城郭遺構と見ても良いのではないかと思いました。腰曲輪地形②は竹が生い茂っていましたが、曲輪→耕作地→竹ヤブ の経過はよく見かけますね。
井ノ口城 井戸④ 近年まで利用されていた可能性あり
山城の「土坑」は井戸だったかどうか、よくわからない場合が多いのですが、この井戸跡は近年まで山下の住宅の井戸として利用されていた可能性がありそうでした。この井戸は往時はⅠ郭で利用されていたのだと思いますが、曲輪から井戸への道は明確ではありませんでしたが、在ったとしたら随分急な角度だったようでした。
井ノ口城 竪堀⑤ 北上から
Ⅰ郭の南斜面には何段もの長短の平場がありました。資料①でも述べられているように、平場が城郭遺構か後世の山畑跡かは区別することが難しかったです。 写真の竪堀は崩落地形ではなさそうで、東西の行き来を妨げる位置と形でしたので、竪堀と見ました。竪堀⑤と井戸④の間にも何段かの平場が有りました。
井ノ口城 帯曲輪地形⑥ 東から
幅はあまり広くないですが、城域の南斜面では最も長い平場でしたので、帯曲輪としました。後世の耕作地としての利用も考えられますね。
井ノ口城 出曲輪地形③ 城域東側の旧道と月原からの道の合流点付近から
城域東側に突き出た地形を利用した出曲輪地形③がありました。街道を見張るには最適の位置にありますので、見張り台が置かれていたのではないかと想像しましたがどうでしょう。手前の道は城域を南から東に巻く旧道(飯田街道)です。
井ノ口城は後世の耕作地としての利用で改変が有り、城郭遺構と耕作地での造成の区別が難しいとされますが、地形としては概ね残っていると思われますので、往時の姿を想像しながら楽しく見学できてよかったです。
※大堀切への見学路は整備されていましたが、それ以外の場所は未整備で、雑草と荒れた竹林との戦いを楽しむの場所が多かったです。