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大平姫城 三河 隣接する大平本城との関連が考えられる尾根先端の城郭

2024-02-09 | 歴史

大平(おおだいら)姫城は豊田市大平町にあります。隣接して大平本城があり、その関係性については諸説があるようですが両城は一体だった可能性もありそうです。当初は大内下総守久政が居城したとされますが、後に足助の鈴木氏(鱸氏)が小原地区に侵攻したときに奪われたと伝わります。今回の参考資料は(1)「藤岡・小原・旭の中世城館」愛知県中世城郭研究会1993  (2)「愛知県中世城館跡調査報告2」愛知県教育委員会1994   (3)「愛城研報告 第16号」 三河・大平城の縄張 高田 徹2012  (4)「愛知縣西加茂郡全圖」西加茂郡教育會 編纂 松岡利助1915.6」西加茂郡教育會1915 と東海古城研究会の「小原市場城と大平本城・姫城」城見学会資料2023 などです。

大平姫城 小原地区は谷ごとに割拠した豪族により支配されていた
 足助鈴木氏の侵攻によって小原地区は鈴木氏の席巻するところとなり、鈴木氏に臣従した者、逃亡した者など、対応が分かれたようです。

大平姫城  主要な「みち」の結節点だった                    愛知縣西加茂郡全圖
 大平は古くから美濃の柿野に通じる「柿野みち」や東西を結ぶ「荷掛みち」が交わる地点にあり付近の地名からも流通の要所であったようです。大平姫城・本城は尾根上に在りその間の谷を含めた尾根裾の平坦地には上大屋敷、下大屋敷の地名が今も残り、上大屋敷には城主の屋敷、下大屋敷には家臣の屋敷が在ったという伝承が地元に残ります。

大平姫城 尾根南端に築かれ、後に耕作地として使われた ⑬から大量の銭が発見された
 尾根の先端に築かれた大平姫城は自然地形を利用した高くて急角度の切岸が防御の要となっていました。城域の北東部は幅広の堀切⑩で尾根を断ち切っていました。後世の耕作地化によって周囲の改変も見られました。図3の平場⑬からは資料(1)によると、ここから開通元宝や永楽通宝などの古銭が大量に(約75Kg)見つかったそうです。そのためこの付近に重要な屋敷が在ったのではないかともいわれます。ちなみにこの谷は昭和47年災害の豪雨被害で地形が変わるほどの被害を受けているようです。谷に屋敷が在ったとしても、大平姫城に属するのか、大平本城に属するのかは議論の分かれるところになっているようです。

大平姫城 帯曲輪⑨  奥に⑧ 左上に曲輪② 北から
 帯曲輪⑨は⑧よりも一段下がっていました。この帯曲輪⑧⑨の南西側の道路沿いにも高くて急な切岸がありました。

大平姫城 腰曲輪⑦ 往時の城道はこの曲輪を通っていた可能性がある
 腰曲輪⑦は帯曲輪⑧よりも一段高くなっていました。戦後の空中写真を見ると、この曲輪も耕作地だったと思われます。資料によると往時の城道は南下から帯曲輪⑧→腰曲輪⑦を経由して主郭部に登っていた可能性があるとされますが、後世の農道などもあり明確な城道は確認が難しかったです。

大平姫城 犬走り⑥ 南西から  左上に曲輪① 奥に曲輪③   
 主郭部の南東辺には犬走状の細い平場が設けられていました。農道としても利用された可能性大ですが、往時の城道の可能性もありそうでした。

大平姫城 曲輪② お国の一段上に曲輪①  南西から
 曲輪②も耕作地として分割利用されていましたので溝状の地形もありましたが、概ね往時の姿を保っていると判断されているようです。曲輪①も耕作地化で城郭遺構は見当たりませんでした。

大平姫城 曲輪①から曲輪③を見下ろす 南西から 奥に土壇⑤
 曲輪③は後世の掘り下げが行われて低くなっていると評価されていて、往時は①と③を合わせた広い削平地に屋敷の存在が考えられそうです。

大平姫城  図3のA--A'の断面概略図 aは想定

大平姫城 曲輪③ 北東端の土壇⑤と細い平場④ 南西から
 断面図のように、細い平場④は曲輪①とほぼ同じ高さだったのが削り残された地形のようで、元々はaの面まであったのではないかと想像しました。写真では笹が茂っていてよく見えませんね。奥に一段高い土壇⑤があります。

大平姫城 堀切⑩ 南東から 左に土壇⑤
 北東尾根を断ち切る幅広の帯曲輪⑩がありました。南下に続く竪堀⑪があり同じような巾ですので、堀切⑩の幅は往時もこの幅が在ったのではないかと思いました。

大平姫城 幅広の竪堀⑪ 北上から 
 竪堀⑪は堀切⑩から南に切れ落ちていました。幅広で堀切⑩の幅と同等でした。なお谷を挟んだ対岸の大平本城にもほぼ同じ線上に竪堀が在ったようです。

大平姫城 古銭の大量出土地点付近⑬  北から
 大平本城との間の谷の奥部は後世の耕作地化で削平されたようで、大正14年の開墾中に大量の古銭が土中から見つかったそうです。それにしても75Kgとはすごいですね。古銭が埋められている例は時々あるようで、小原地区では乙ヶ林城でも見つかっていました。 乙ヶ林城その1は→こちら

大平姫城 大平本城との間の谷 南から 昭和47年豪雨災害で大きな被害を受けた
 この谷間は、付近に上大屋敷の地名が残ることなどもあり、城主に関連する屋敷が在ったのではないかという説もあるようですが、今のところ確証はないようです。

大平姫城 段差に設けられたブロックの低い擁壁⑭
 往時の地形が残された段差かどうかは不明ですが、コンクリートブロックの擁壁が設けられていました。
谷の南側の入口部にはヤギの小牧場がありメーメー鳴く声で癒されました。

大平姫城 城域北側の切岸も高くて急角度 人物との比較でわかる
 写真のように、城域北側の切岸も高くて急角度で、守りの要は切岸が納得できるものでした。図3の⑫は浅い谷地形だったようですが、今は耕作地跡となっていました。

大平姫城は耕作地化された部分が多いようでしたが、往時の姿をよく留めているようで、切岸を堪能しながら楽しく見学出来て良かったです。隣接する大平本城も、興味深い遺構がてんこ盛りでしたので、改めて当ブログで紹介したいと思います。