矢草城は長野県下伊那郡阿南町大下条西条本城にあります。東に天竜川を見下ろす街道を扼する位置にあり、新野から北に進出し権現城、上田城などを築いた関氏が、下条村の下条氏と対峙し上田城を築くまでの短期間居住したとされます。今回の参考資料は「信濃の山城と館 6」宮坂武男 2013などです。※権現城は→こちら
矢草城 北進して下条氏の勢力圏に侵入した関氏だが、ついには敗退した
資料によると、大沢城は下条氏の始祖の地で、下条村の吉岡に移るまで5代が居住したとされます。一時は勢力拡大に成功した関氏でしたが、領民の不支持によって敗退したようです。
矢草城 大手道はaの「城坂」方面から 見学路はb
見学は山下の路肩に駐車し熊谷家の脇を通る道からb、大堀切①を経由してⅠ郭に登りました。途中、道Cが分岐しますが、大日堂への参道だったようです。
矢草城 熊谷家住宅 今は無住かも
資料によると矢草城の井戸が在ったとされます。熊谷家といえば、権現城にも熊谷家がありました。古い時代、三河熊谷氏は天竜川を北上し勢力を拡張した雄族でしたから、信濃の各地にも一族が広がっていたのではないかと想像してみましたがどうでしょう。
矢草城 道Cの切通 北から 左に「山の神」
大日堂の旧参道と思われる道Cの切通は堀切のようにも見えました。尾根を大堀切①で区切った「山の神」が遺構に含まれるとすれば、切通も堀切だったと思われます。
矢草城 上幅15mの大堀切① 南から
矢草城は北と東からの下条氏の侵攻に備えたと思われますが、背後の西側も大堀切でしっかり守っていたようです。
矢草城 Ⅰ郭 北から
Ⅰ郭は面積の広い丁寧に削平された曲輪でした。後世の耕作地としての利用が考えられそうでした。
矢草城 Ⅰ郭の段差 北から
Ⅰ郭は中央に低い段差がありました。耕作地利用の場合でも、城が稼働していた時の地形が残されているかもしれません。
矢草城 Ⅰ郭から平場⑥を見下ろす
Ⅰ郭の北東と北西の小尾根には尾根を削ってⅠ郭の切岸を削りだした腰曲輪状の平場がありました。
矢草城 Ⅰ郭南東隅の法面⑤に転落石が多数
法面⑤に転落石と思われる石が多数ありました。往時は大手道aを通る人に対して見せつける効果があったのではないかと思いました。
矢草城 堀切② 北から 右上にⅠ’郭
大堀切①と比べると随分狭い堀切②でした。石垣の積まれた高い切岸があったので、堀切の必要性は少なかったかも知れませんね。
矢草城 低土塁④ 南から 石列があったようだが写真では?
図2の大手道aを登ってくると土塁④で180度のUターンをしていたようでした。往時の土塁④の高さは不明ですが、埋もれた石列らしきものがありましたので、城の稼働時にはもっと高い土塁で、侵入に備えていたのかもしれないと想像しました。
矢草城 平場③ 西上から
平場③は資料では馬出の機能があったと記されていました。平場③、土塁④、堀切②、Ⅰ郭の石垣など複数の備えで大手道からの侵入に対して厳重に備えていたのが判りました。
矢草城 日向GISより 矢草城付近のCS立体図
CS立体図で見ると、熊谷家付近には段々の平場が多数あり、耕作地だった可能性が大ですが往時は屋敷地だった可能性もありそうですね。熊谷家に井戸が在ったことも考えると、城の西側が搦手だったのではないでしょうか。
矢草城はシンプルな構造の山城ですが、遺構の残りがかなり良好で、興味深い大手の遺構などもあり、大いに楽しめる見学ができて良かったです。