白瀬(しろせ)城は三重県いなべ市藤原町本郷にあります。員弁川に削り取られた高さ35mの絶壁上に築かれ、5条の堀切で区切られた四つの曲輪の残存状態は良好でした。永禄年間に居住した近藤弾正左衛門吉綱が、永禄四年(1561)治田山城守に襲われ討ち死にし、城は火をかけられて落城したと伝わります。今回の参考資料は (1)「三重の中世城城館」三重県教育委員会1976 (2)「再発見 北伊勢国の城」伊藤徳也著2008 などです。
白瀬城 員弁川に削られた台地上に在る 高低差は35mを測る
周辺には山口城、上平野城などが在り、今は工業団地が北側に造成され道路が通り、北側から見学に入れますが、古い道は南下の員弁川沿いから登る城道が在ったと思われます。 ※山口城は→こちら
白瀬城 道bは中部電力の送電線保守道 古保川には橋がある
今回の見学は藤原工業団地付近の路肩に駐車し、中部電力の保守道を使って城域に入りました。南下の員弁川沿いの用水路にかかる橋13からも道が在りました。
白瀬城 工業団地沿いの道から保守道へ入る
中部地方の山城巡りでは、中部電力の送電線鉄塔の保守道を使って見学することが時々ありますが、ここでも保守道から入りました。
白瀬城 保守道の古保川を渡る橋
保守道は定期的な送電線の点検のために、常時整備されていますので、藪漕ぎなしで通れます。ここでは古保川を渡る橋も架けられていました。
白瀬城 Ⅰ郭 北西辺の堀切A 北から 左にⅠ郭
Ⅰ郭は、北西端に土塁6を設け堀切Aで尾根筋を断ち切っていました。
白瀬城 Ⅴ郭 北西から 右上にⅠ郭 左下奥に二段の平場
Ⅴ郭は幅の狭い平場で堀切Aに繋がっていました。堀切Aで北西尾根からの侵入を防ぐ効果がV郭の存在で弱められてしまうように感じますがどうでしょう。
白瀬城 Ⅰ郭西辺土塁6 北東から 右下に堀切A
土塁6は規模の大きなものでした。高さと幅があり、堀切Aと相まって尾根筋をしっかり守っているようですが、Ⅴ郭の存在が気になりますね。
白瀬城 Ⅰ郭 北東辺中央の虎口3 北東下から
資料(2)ではⅠ郭を主郭としていますが、資料(1)では「本丸とその北西に二之丸、北方に侍屋敷があった」とされます。資料(1)に従えば本丸はⅡ郭、Ⅰ郭は二之丸、古保川沿いの法面の平場などが侍屋敷とも考えられますので、疑問が残りますがどうでしょう。
白瀬城 Ⅰ郭の土坑は深い井戸のようだ
Ⅰ郭は中央部に低い段差がありました。その北東隅には井戸と思われる土坑が見られましたが、縁が不明確で危険でしたので、のぞき込むことが出来ませんでしたが、深い井戸のようでした。
白瀬城 Ⅰ郭東辺中央の虎口4 堀切B奥にⅡ郭 北西から
虎口4は堀切Bの堀底道からⅠ郭へ上る形でした。虎口を守る土塁等は見当たりませんでした。堀切Bの反対側には土塁で守られた虎口gが在りました。
白瀬城 堀切B 北から 右にⅠ郭 左にⅡ郭
Ⅱ郭の北側法面を回り込んできた城道は堀切B仁つながっていて堀底道を通って、Ⅰ郭とⅡ郭の虎口4とgに入ります。
白瀬城 Ⅰ郭南西辺 南西下35mに員弁川
城域の南西から南にかけては切り立った崖が続いていますので守りの為の設備は必要ではなかったようですが、縁辺部を通路状の地形が見られました。一部は後世の道の可能性もありそうでした。
白瀬城 Ⅱ郭の送電線鉄塔
資料⑵によると、鉄塔の建設に伴い発掘調査が行われ、かなりの遺物が発掘されたようです。建物跡と確定できる礎石は確認できなかったようですが、礎石に相当するサイズの石が複数見つかったとされます。
その1では城域の西側半分を見てきましたが、その2では東半分を見てゆく予定です。
白瀬城 員弁川に削られた台地上に在る 高低差は35mを測る
周辺には山口城、上平野城などが在り、今は工業団地が北側に造成され道路が通り、北側から見学に入れますが、古い道は南下の員弁川沿いから登る城道が在ったと思われます。 ※山口城は→こちら
白瀬城 道bは中部電力の送電線保守道 古保川には橋がある
今回の見学は藤原工業団地付近の路肩に駐車し、中部電力の保守道を使って城域に入りました。南下の員弁川沿いの用水路にかかる橋13からも道が在りました。
白瀬城 工業団地沿いの道から保守道へ入る
中部地方の山城巡りでは、中部電力の送電線鉄塔の保守道を使って見学することが時々ありますが、ここでも保守道から入りました。
白瀬城 保守道の古保川を渡る橋
保守道は定期的な送電線の点検のために、常時整備されていますので、藪漕ぎなしで通れます。ここでは古保川を渡る橋も架けられていました。
白瀬城 Ⅰ郭 北西辺の堀切A 北から 左にⅠ郭
Ⅰ郭は、北西端に土塁6を設け堀切Aで尾根筋を断ち切っていました。
白瀬城 Ⅴ郭 北西から 右上にⅠ郭 左下奥に二段の平場
Ⅴ郭は幅の狭い平場で堀切Aに繋がっていました。堀切Aで北西尾根からの侵入を防ぐ効果がV郭の存在で弱められてしまうように感じますがどうでしょう。
白瀬城 Ⅰ郭西辺土塁6 北東から 右下に堀切A
土塁6は規模の大きなものでした。高さと幅があり、堀切Aと相まって尾根筋をしっかり守っているようですが、Ⅴ郭の存在が気になりますね。
白瀬城 Ⅰ郭 北東辺中央の虎口3 北東下から
資料(2)ではⅠ郭を主郭としていますが、資料(1)では「本丸とその北西に二之丸、北方に侍屋敷があった」とされます。資料(1)に従えば本丸はⅡ郭、Ⅰ郭は二之丸、古保川沿いの法面の平場などが侍屋敷とも考えられますので、疑問が残りますがどうでしょう。
白瀬城 Ⅰ郭の土坑は深い井戸のようだ
Ⅰ郭は中央部に低い段差がありました。その北東隅には井戸と思われる土坑が見られましたが、縁が不明確で危険でしたので、のぞき込むことが出来ませんでしたが、深い井戸のようでした。
白瀬城 Ⅰ郭東辺中央の虎口4 堀切B奥にⅡ郭 北西から
虎口4は堀切Bの堀底道からⅠ郭へ上る形でした。虎口を守る土塁等は見当たりませんでした。堀切Bの反対側には土塁で守られた虎口gが在りました。
白瀬城 堀切B 北から 右にⅠ郭 左にⅡ郭
Ⅱ郭の北側法面を回り込んできた城道は堀切B仁つながっていて堀底道を通って、Ⅰ郭とⅡ郭の虎口4とgに入ります。
白瀬城 Ⅰ郭南西辺 南西下35mに員弁川
城域の南西から南にかけては切り立った崖が続いていますので守りの為の設備は必要ではなかったようですが、縁辺部を通路状の地形が見られました。一部は後世の道の可能性もありそうでした。
白瀬城 Ⅱ郭の送電線鉄塔
資料⑵によると、鉄塔の建設に伴い発掘調査が行われ、かなりの遺物が発掘されたようです。建物跡と確定できる礎石は確認できなかったようですが、礎石に相当するサイズの石が複数見つかったとされます。
その1では城域の西側半分を見てきましたが、その2では東半分を見てゆく予定です。