さる3月20日(日) 東海古城研究会の見学会が開催されました。新型コロナ対策でJR三ヶ根駅に午後0時30分に現地集合、徒歩で見学し終了後は現地解散でした。非会員の方の参加もOKなので数名の非会員の方の参加がありました。
今回の見学は、三河十四松平の一家、深溝松平氏の関連史跡を東海古城研究会のベテラン会員さん作成の資料と現地案内で行われました。
見学先は 深溝城 兵九下 三光院 本光寺(西御廟所、東後廟所) でした。
深溝城は松平家忠日記で知られる深溝松平四代の松平家忠の生誕地で、以前の当ブログで土塁や城址碑を紹介していますのでご覧ください。※ 深溝城は→こちら
深溝城 城址碑に隣接して立つ案内板
城址碑は以前訪れた時と変わりませんでしたが、案内板が刷新され絵図や写真で分かりやすくなっていました。案内板に深溝松平氏と大場氏の関連史跡や寺社の空中写真や絵図が掲載されていました。
深溝城 陣屋時代の絵図
絵図は後に置かれた陣屋の時代の図ですが、絵図や地籍図の検討で往時の城域などの推定が行われています。残存する土塁の位置も絵図で推定できそうですね。
深溝城と周辺 案内板の空中写真
案内板に掲載の空中写真で史跡や寺社の位置関係がわかりやすく表現され、往時の深溝城の推定城域も示されていました。
国土地理院地図に写真の関連地点を落とし込む
地籍図や絵図から往時の深溝城の城域は広かったと想定されていますが、陣屋時代には縮小して利用していたようです。旧本光寺は「向野の首塚」がある場所だったとされますが後に現在の場所に移されました。深溝城Bは詳細不明ですが、ここにも城があったと伝わります。
兵九下に立つ案内板 案内板は刷新されてわかりやすくなった
深溝城は当初大庭氏の居館があったと推定され、松平氏が領してから城郭としての改修が重ねられたと推定されています。「兵九」は人名と見られ、松平氏が深溝城を攻めた際「兵九」が内応して大庭氏が滅びたと伝わります。兵九下の地名と付近の地形から考えると大庭氏の居館に隣接して「兵九」の屋敷があったのではないかと想像しましたがどうでしょう。
三光院 深溝松平家 初代忠定の夫人が開基とされる
三光院は初代忠定夫人が開基の寺院で、深溝城に隣接して造営され深溝城から徒歩3分の至近距離にありました。
本光寺 西御廟所の十一代忠恕廟
本光寺は深溝松平家の移封に従って移転を繰り返しますが、五代忠利の時に深溝に戻り三河深溝藩初代となった折に造営されたのが今の本光寺とされます。西御廟所には初代~五代と十一代が祀られています。
本光寺 東御廟所( 島原藩主深溝松平家墓所)
東御廟所には六代~十代、十二代~十九代と六代正室が祀られています。墓石は全国的にも珍しい神殿型の形式で国史跡として指定されています。大雨により墓所の一角が崩れたときにガラスコップなどの埋葬品が多数発見されました。
江戸時代の大名家の藩主の墓地は藩内に設けることが多かった様ですが、深溝松平家は藩主が亡くなると遺体を深溝まで運んで埋葬しました。従来は遺体を船で運んだとされていましたが、近年の研究では陸路で運んだ可能性が指摘されていると説明がありました。
ご近所ですので、何度か訪れたことがある深溝城や本光寺ですが、見学会では詳しい説明を聞きながらの見学で新たな発見もあり、よかったです。
東海古城研究会の見学会は毎月のバスによる日帰り見学会と年二回の一泊2日・二泊3日の特別見学会が行われていましたが、コロナ禍で中止または半日見学会になっています。新型コロナの感染状況を見ながらですが、従来の形式に戻るのが待ち遠しいです。
なお、会の活動案内や見学会の予告・問い合わせ・参加申込は東海古城研究会公式Twitterで行われていますのでご覧ください。当ブログ左下のブックマークからもリンクしています。