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大野田城 三河 その1 菅沼定盈ゆかりの城郭を絵図と遺構の対比をしながら見学する

2022-04-05 | 歴史

大野田城は愛知県新城市野田にあります。大野田城の歴史は古く建武の新政の(1333)頃に富永氏によって築城されたと伝わります。その後応永年間(1394~1427)頃に城所浄古斎の砦として利用されたとされます。大野田城の西700mには菅沼氏の野田城があり、今川氏との戦いで荒れた野田城修復のため菅沼定盈が大野田城を拡張・改修して一時利用したとされますが元亀二年(1571)武田軍の攻撃を受け火を放って自洛し南約8kmの西郷地区の五葉城に隣接する高城に退いたとされます。
 諸国古城之図や菅沼家譜所載の絵図を見ると、主郭以外にも興味深い複数の曲輪があり、屋敷地と思われる広い平場もあったとされますので、絵図を片手に出掛けて現地を見学し遺構の現況を見学しました。
 今回の資料は (1)「愛知県中世城館跡調査報告Ⅲ」愛知県教育委員会1997   (2)浅野文庫「諸国古城之図」より「三河設楽 浄古斎」広島市立中央図書館  所蔵  (3)「菅沼家譜」新城市教育委員会(1970)   (4)現地案内板 などです。

    
浅野文庫「諸国古城之図」より「三河設楽 浄古斎」広島市立中央図書館  所蔵
 「諸国古城之図」では、大野田城の名称が「三河設楽 浄古斎」となっています。菅沼家譜所載の絵図では不鮮明ながら本城、二之丸、三之丸などの書き込みや浄古斎城の書き込みがありますので、浄古斎としたのではないかと思いました。ちなみに菅沼家譜(延宝五年本)の原本成立が諸国古城之図の成立よりも早いようです。諸国古城之図の「三河設楽 浄古斎」と菅沼家譜所載の「大野田城(浄古斎城)」図 は、ほとんど同じ図ですが、一部に若干の違いが見られました。
 掲載の浅野文庫「諸国古城之図  三河設楽 浄古斎 」は広島市立中央図書館の許可を頂いて掲載しています。


大野田城 豊川沿いには主要街道の伊那街道や別所街道が通っていた
 東三河の大河である豊川(とよがわ)の周辺は古くから開けた場所で、今川・武田・織田・徳川の境目の地として多くの城郭が築かれていました。武田信玄との関連で野田城が有名ですね。


大野田城 国土地図をカシミール3Dで加工し 「三河設楽 浄古斎」図を概略トレースし重ね合わせ
 諸国古城之図と菅沼家譜所載図はほぼ同一の図となっていました。現在の地図に重ね合わせてみると、およその位置関係が想定できそうでしたので、この図を片手に現地見学しました。


大野田城 絵図の概略トレースと3D地図の重ね合わせ(城域を切り出す)
 遺構はⅠ郭付近がよく残っていて資料(1)で縄張図が描かれています。周囲は後世に森となり、その後畑となり、今は一部が住宅地や工場用地として利用されていました。
 資料(3)所載の絵図には文字の書き込みがありⅠ郭=本城、Ⅱ郭=二之丸、Ⅲ郭=三之丸、Ⅵ郭=侍屋敷となっていました。Ⅳ郭は文字の記入がありませんでしたが「四」は縁起が悪いので四之丸と書かなかったのではないかと想像しましたがどうでしょう。
 現地案内板によると中市場池は明治時代に本丸を一部切り崩して農業用の溜池として造られたと記されていました。


大野田城 中市場池の堰堤からⅠ郭を見る  東から
 中市場池の堰堤は明治時代に築かれたようなので、往時の道の確認は難し状態でしたが絵図との対比で見ると、古い道は池の中になってしまった可能性がありそうでした。


大野田城 堰堤から北を見る   池は季節によって水が抜かれるようだ 奥左にⅡ郭  右奥に谷地形
 見学時には水が抜かれて池の底が見えていました。絵図では現在池になっている部分も含めて北に向けて図3の谷地形 があり水堀のような絵になっています。現在谷地形 は池に向かって下がる段々の耕作地になっていました。


大野田城 Ⅱ郭東辺から  図3の谷地形あ  を見る  南から
 Ⅱ郭東辺の張り出し部分から北を見ると谷地形 が見通せました。絵図によれば谷地形 に水があった可能性も否定できませんが今は後世の耕作地化で、段々の平場になっていました。Ⅱ郭の左奥にはⅢ郭が見えます。


大野田城 谷地形あ とⅢ郭東辺の切岸    北から
 谷地形あ を反対の北側から見るとⅢ郭の切岸がはっきり見えました。左手奥にはⅡ郭に立つ住宅が見えています。


大野田城 Ⅲ郭北東隅の石仏 右手に 谷地形あ   左手にⅣ郭
 城域の北端部にはⅣ郭がありました。絵図では谷地形あ は更に北へ伸びていますが、現況は宅地化で埋立てられたようでした。石仏は、周囲に散布していたものを後世になって、ここに集めたのだと思います。


大野田城  右に侍屋敷 左にⅣ、Ⅲ、Ⅱ郭 奥にⅠ郭  北から
 Ⅳ郭付近から南を見ると、侍屋敷とⅡ~Ⅳ郭跡が畑地となって広がっていました。明治23年測量の旧地図を見るとこの辺りの城域は殆どが針葉樹林の表示となっていますので、その後畑地に転換したものと思われます。


大野田城 侍屋敷を東から見る
 侍屋敷をⅡ郭とⅢ郭の境目あたりと思われる場所から西に見た写真です。今は殆どが畑地となり、一部が工場用地となっていました。奥に見える一番高い山は本宮山です。


大野田城 Ⅰ郭西側に伸びる谷地形 北から
 絵図のⅠ郭(本城)の西側に水堀状の谷地形が西に伸びるように描かれています。現地で見ると、写真のように荒れた地形になっていますが、絵図のように谷地形がⅥ郭に入り込んでいる状態が確認できました。


大野田城 城域南側 図3アから東を見る
 諸国古城之図によると城域の南側は湿地のように描かれていますが、今は田地が広がっていました。この辺りに城郭遺構は見当たりませんでしたが絵図に描かれた地形が想像できる地形でした。

今回の 大野田城 その1 では絵図に描かれた城域のⅠ郭(本城)を除く部分を見学しました。後世の改変によって周辺部はかなり遺構が失われてしまったのが確認できましたが、往時の姿をある程度想像できる場所もありました。
 その2 では遺構がよく残り、縄張図も描かれているⅠ郭を中心に見学したいと思います。


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