三宅西条城は三重県鈴鹿市三宅町字西条にあります。西城は「ニシジョウ」と読みます。
肥後国から来住し三宅氏を名乗った槇野氏が築いたとされますが、永禄十二年(1569)織田信長の伊勢侵攻で攻略され廃城になったと伝わります 資料1。
今回は「三重の中世城館跡」三重県教育委員会1976※資料1と「再発見 北伊勢国の城」伊藤徳也著2008※資料2を参考資料として出かけました。
肥後国から来住し三宅氏を名乗った槇野氏が築いたとされますが、永禄十二年(1569)織田信長の伊勢侵攻で攻略され廃城になったと伝わります 資料1。
今回は「三重の中世城館跡」三重県教育委員会1976※資料1と「再発見 北伊勢国の城」伊藤徳也著2008※資料2を参考資料として出かけました。
三宅西条城 主郭Ⅰの南と北下には帯曲輪Ⅳ、Ⅴが残る。尾根上には3条の堀切とⅡ、Ⅲの削平地が残る
主郭東側は道路工事で削られたので、原状がわかりませんがひょっとすると帯曲輪は東側にもあってⅣとⅤはつながっていたかもしれないと想像しました。あくまで想像(妄想?)です。
三宅西条城は付近に適当な駐車スペースが無かったので、今は使われていないと思われる林道入口に駐車しました。駐車は自己責任で!
城道は①と②がありましたが今回は尾根上の城址を右手に見ながら②の道を進み①の道を下りました。
主郭東側は道路工事で削られたので、原状がわかりませんがひょっとすると帯曲輪は東側にもあってⅣとⅤはつながっていたかもしれないと想像しました。あくまで想像(妄想?)です。
三宅西条城は付近に適当な駐車スペースが無かったので、今は使われていないと思われる林道入口に駐車しました。駐車は自己責任で!
城道は①と②がありましたが今回は尾根上の城址を右手に見ながら②の道を進み①の道を下りました。
※三宅西条城の東側は発掘調査が行われているようなので、その資料があれば東側の状態もわかると思いますが現時点では確認できていません。
三宅西条城 城址南側の谷地形 右手上に城址。図1②の道を進む。 踏跡が残る
南側の切岸の高さは20m近くあり、天然の要害と言えそうです。東側の現状がよくわかりませんが、北側は中ノ川があるので防御の弱点が西尾根方向にあったようです。切岸を見上げながら100mほど進む城道を歩くと、この城のスケール感が味わえました。
三宅西条城 尾根西端のⅢ郭西側の堀切。深くないが明確に残っている
城道②を進むと西側尾根の西端部の堀切に出ました。ここには浅めの堀切遺構が残っていました。風化が進んでいるようには見えませんでしたので、もともと深くはなかったのではないかと思いました。
三宅西条城 Ⅱ-Ⅲ郭間の堀切 中央部に段差がある。土橋とは違う用途か?
Ⅱ郭、Ⅲ郭とも一応削平はしてありますが土塁などはありませんでした。この堀切は堀の途中に段差があると資料2で指摘されているので気付きました。資料2によると土橋ではなさそうです。段差の意味合いまでは確認できませんでしたが、段差の前後のつながりから土橋の可能性が否定されているように思いました。
三宅西条城 Ⅰ-Ⅱ郭間の上幅18mの大堀切 堀底に段差あり
上の写真では堀の中央部の段差がよくわかります。資料2では土橋とは違う用途の地形とされています。Ⅰ-Ⅱ郭間に橋が架かっていて橋台の可能性も考えられるとしています。主郭に明確な虎口がなくⅠ郭への出入りのための橋が想定できるということです。Ⅰ郭の四周は土塁が回っていてわずかな切れ目が北西隅部にあるので、そこが虎口の可能性もありのようです。
三宅西条城 Ⅰ-Ⅱ郭間の大堀切
ここに橋があったかも、と考えながら見学すると楽しいですね。
三宅西条城 Ⅰ郭西辺の大土塁 北東から
Ⅰ郭を囲む土塁の西辺は一段高くて幅が広くなっていて、いわゆる櫓台状の遺構が残っていいました。3条の堀切と相俟って西尾根からの敵の侵入に対してずいぶん厳重な防禦態勢がとられているなと感じました。
三宅西条城 主郭北側の帯曲輪Ⅳ 西から 右手上に主郭Ⅰ
主郭Ⅰと北側の帯曲輪の高低差はおよそ5mはありそうででした。ここから麓までさらに15mほどの高低差があり中ノ川に至ります。 下山はⅤ郭の東端からの城道①を下りました。
三宅西条城は遺構が思ったよりもしっかり残っていたので、資料2と首っ引きで充実した見学が出来ました。