宝島のチュー太郎

酒屋なのだが、迷バーテンダーでもある、
燗酒大好きオヤジの妄想的随想録

LEELAとは【神々の戯れ】

2022年05月26日 20時22分37秒 | 徒然




 戦争とは、大概、一人のキ印が始める。
今、ユーラシア大陸で起こっている事変は、余りにも1939年に勃発したナチスのポーランド侵攻と似通っている。
ウクライナをネオナチとプロパガンダしながら、実はその本人がナチスそのものではないか。
そして、周辺国の自国とのパワーバランスという忖度から、連合や同盟が結成される。

 キ印の集まった当時の日独伊は、現在に置き換えれば、さながら中露北朝、そこに印度も引っ張り込まれるかも。
そうした現況を俯瞰すれば、限りなく第三次世界大戦という最悪のシナリオが浮かんでくる。


 結局、人間はアホで、好戦的に出来ている。
何なら、軍産複合体、そしてそれを牛耳る連中は、戦争は必要悪だとほくそ笑んでると言えなくもない。
即ち、地球の人口がこのまま増え続けると起こるであろう食糧危機に備えての食い扶持減らしには戦争が一番手っ取り早いと。

それが証拠に、スターリンを筆頭に、毛沢東もヒトラーも何千万という人民を虐殺してきた。
それは、戦闘で死んだ兵士の数を優に上回る。
どう考えたって、『どさくさ』を利用した棄民ではないか。
そして今、昔と何ら変わらず、各地の独裁者が猛威を振るっている。
マゼランやコロンブスの新大陸発見以降、植民地支配という搾取の時代から、基本的には何も進歩してない。



 私が心の中で支持してきた坂口安吾の戦争論のように、文化や民度は最終的にキ印を隅へ追いやり、世界統一国家へ、というのは机上の空論なのか。

確かに、現状を見やれば、安吾の説く『女の子が暴行されたり、男の子が頭のハチを割られ片腕をヘシ折られキンタマを蹴りつぶされるようなことが相当ヒンピンと起ることはキ印相手のことでどうにも仕方がないが、それにしてもキ印相手にまともに戦争して殺されぶッこわされるのに比べれば被害は何万億分の一の軽さだか知れやしない。』というほど甘くはないのかも知れない。

となれば、抑止力という名のもとに、最終兵器で武装することは致し方ないことなのか。
いや、そうなれば、とどの詰まり、核兵器の応酬になることは覚悟しておかなければならない。





 と、ここまでは、三次元に唯物的に生きる人類の考え方だと思っている。
実は、私は今、こう思っている


【自我は存在しない】

 この世界は大きな海で、私たちはその波の一つに過ぎない。
一つひとつの波はみんな違って個性的。
同じものは一つもないし、これからも一つも起きない。
しかし全部繋がっている。
つまり、大海はこの世界全体で、波は私たち一人ひとりの存在。
量子という全体の大海の中の一つの現れ、それが私たち。


・魂には、良い悪いの判断はない。判断するのは、生まれてから発達する自我(エゴ)。魂は死なない。だから魂にとって「死」は避けるべきものではない。魂は「死」をも含め、ただひたすらたくさんのことを、多くのことを、珍しいことを、面白そうなことを体験したいだけ。
・自分の目の前に起こっていることが受け入れがたい事実であればあるほど、魂の視点で意味づけを行うと不思議と落ち着く。
・自分⇒エゴを客観視する。
・自分に起こる全ての出来事は、自分で決めて自分で起こしている。人や環境のせいにしないで、自分が創り出したものだと自覚することによって、次の扉が開く。
・反省はしても、自分を責める必要はない。
・人生に失敗はない。全てが経験。



 この自我は存在しないという観念を理解するのが難しい。
自我が存在しないのだから、前世もなければ、当然来生もない。
従って、天国も地獄もない。
となれば、ジハード(聖戦)に見られる自爆という発想は起きない筈だ。
あれは、死後、自分だけは安寧の地に迎えられたいという自我の極致のように思える。
また、そうした思いを利用したのが宗教の似非で嫌な側面でもあると思っている。
私は、頭では分かっているつもりでも、時々迷路にハマりそうになる時がある。
それを解決するには、【私は神】という突拍子もない概念が、それを引き戻してくれるように思うのである。
では何故、そこのところに帰結するか、その考え方の流れをもう少し上げてみよう。

 LEELAという言葉がある。
サンスクリット語で「神々の戯れ」という意味。
この宇宙は神々が遊ぶために作った「遊び場」で、神様は自分が神様であることを「敢えて忘れて」この世界にやって来る。
神様はこの世界に生まれたとき「記憶を喪失」する。
何故なら、自分が神様だと知っていると、初めから答えを知っているゲームをやるようなもので、つまらないから。



 仮にホントに我々は神様の化身だとして、そして、我々の目の前の出来事が幻だとする。
でも、生まれ変わる度にその前の記憶が消え去るとすれば、結果として、私が目覚める前に思っていたことと何ら違わない。
要するに、人生は一回コッキリなのだ。
ただ、その大きな仕組みというか理屈を理解した上での毎日と、ただ我武者羅に自己を叱咤する毎日とは大きな違いがある。
その仕組みや理屈を、ロンダ・バーンはザ・シークレットと名付けて世界に紹介したのだろう。
そして、そのお陰で私はその糸口を見つけた。
 また、「生まれ変わる」と書いたが、「ならば過去生があるんじゃんユー」となりそう。
でもそれは、時系列の話ではなく「今ここ」で一緒くたに起こっていると解釈すべきだろう。
パラレル・ワールドが同時に。
何故なら、時間は過去から未来に流れていくものではなく、今現在に過去も未来も全てがある
ということなのだから。
なので、先にも述べたように、前世もなければ来世もないのである。
その考え方自体が「自我」をベースした3次元的発想なので、迷路にハマってしまうのだと思う。

人類の、多分一番高いハードルは「自我」なんだ。
その「自我」との付き合い方。

そいつが肝。
そういうことなんじゃないかな。



 そんな訳で、【成るようにしか成らん】と思っている。
即ち【これでいいのだ】なんである。


 だから、戦争回避の努力はするが、その先は、【明け渡す】。
即ち【大いなる存在】に身を任す。


 これでいいのだ。
まだまだ腑に落ちるところまではいってないが。
だから、時々はこうして自らまとめてみたりする・・・















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