「開山黙宗瑞淵伝」
井伊谷龍潭寺所蔵「開山黙宗大和尚行実」は「往々拠旧記、不下敢以臆断妄有中増損上、其意無他」という姿勢で、享和三年(1803)に、「僧某」によって書かれたものです。多少の間違いはあるとしても、多くは龍潭寺そのほかの黙宗和尚在世時の資料を用いていて、その姿勢は評価に値すると言えるでしょう。「僧某」が誰かはわかりません。
龍潭寺にとって、というより戦国期の井伊谷にとって、黙宗和尚は最も重要な人物の一人ですが、意外や、まともに取り上げた伝は管見の限りひとつだけです。たとえば、延宝八年(1680)当住徹叟著「萬松山龍潭寺草創之由来」では、寺宝の扇子にかけて、黙宗が美濃瑞龍寺に何年も参敲していたが、終に信濃松源寺において文叔と出会い、そのもとで修行得法し、帰郷後一禅刹を開き、開山第一祖に文叔を迎えた、ということが先の扇子の奇瑞に照応するとあります。つまり黙宗について、簡単に紹介しているにすぎません。『井伊家伝記』ではもっと簡素で、数行に止めています。わずかに、先の「行実」が詳細に伝えているにすぎません。黙宗和尚の伝記を書いた僧が、その優れた仕上がりにも関わらず、自らの名を書かず、たんに「某」としか名乗らなかったのは、何か訳がありそうですが、理由はついにわからないままです。
(ⅰ)僧としての前半生
黙宗は若いころ、奥山方広寺派正法寺雲庵怡公禅師の下で得度し、修行しました。初名を智淵と安名されました。渋川村万福寺に、応永三年(1396)三月八日付「奉造立万福寺」棟札に「住持大雲智範誌之」1とあり、この寺が早くに方広寺派下に入っているので、この派に通字「智」をもつ僧がいることがわかります。そこでこの派の僧である雲庵怡公は、智淵の通字「智」からも、諱は智怡である可能性が高いでしょう。
そののち何年かして、井伊谷自浄院に文叔和尚が来ていることを知り、その名声を慕い参じました。同じようにまた多くの雲水が参集し、その中には後の文伯瑞璵(後に号九華
)もいました、とこう書きます。
しかし先に述べたように、文叔和尚は井伊谷には来ていません。江戸時代に入ってそう書かれた資料があったのでしょう。以下、誤解と思えるものはこの類です。
やがてこの地を離れ、足利学校に遊学します。関東管領上杉憲実(1410~1466)が再興してからの足利学校は、「教養も戦争に直接間接に関係あるような書物から得た兵書や特に『周易』を中心とする易の書物が重んじられ」「戦国時代には、各地域の大名のところに就職」するような者を養成するところであったのです。その後、のちに公帖を受けることになる、鎌倉十刹の第一位福源山禅興寺中興で、前建長玉隠英璵(1432~1524)に参じます。玉隠は信濃人滋野氏の出身、蘭渓道隆の法系大覚派の器庵僧達に嗣法しました「鎌倉五山の最後を飾る知識人」と言われています。懶庵、玉澗あるいは聴松軒とも号し、明応七年(1498)将軍足利義高により建長寺一六四世住持になっています。任解けて禅興寺明月院に退去し、長くここに住んでいます。
永正三年(1506)夏、智淵は玉隠から「字説」を受け、道号「黙宗」を与えられます。玉隠は「字説」を多くの人に授けたらしく、『静岡県史 資料集 中世4』にも玉隠が授けた「字説」が二つあります。ただ、後年禅興寺の公帖が黙宗に届けられたのは、この玉隠による推薦があったと考えられ、強い師弟関係が築かれていたと推測できます。また憶測にすぎませんが、この禅興寺で秉払を遂げたのかも知れません。秉払は五頭主(前・後堂首座、書記、東・西蔵主)が住持の替わりに、登壇し、問答・提要・謝語等上堂作法を行うことで、これを経験して、五山における諸山の住持となる資格を得ることができるのです。
やがて玉隠を辞して、諸方遍参の旅に出て美濃瑞龍寺悟渓宗頓に謁するとありますが、悟渓は明応九年(1500)に寂しているので、これは誤りです。また文叔の師、玉浦宗珉に見えるなど名山勝刹を訪ねています。そして信濃松源寺文叔禅師に参じ、永正十二年文叔が妙心寺住持を勤めた際にも、片時も側を離れず助けたと言います。ただ文叔の住持職は三日で終わるもので、玉浦、独秀乾才等が器と認めたとありますが、これも疑問ですし、独秀は前年永正十一年(1514)八月寂ですので、黙宗と出会ったかどうかもはなはだ疑問です。
文叔の任解けて帰山するときにも、黙宗は従ったといいます。このあと文叔の葬儀を終えて、遠州に帰り、招かれて浦川村(旧佐久間町)桐井山東福寺の開山始祖になりました。幾ばくならず、奥山正法寺に帰り、廃退していた方広寺伽藍の再興に尽くしています。また奥山親朝、井伊直平・直盛の帰依を得ました。こう「行状」は書きます。
この「玉隠を辞して」以降の段落は、とくに疑問のあるところなので、少し詳しくみていくことにします。
黙宗が遠州に帰り、奥山に入ったのは大永五年(1525)秋八月です5。玉隠のもとを去って、約二十年弱経っていました。このことは、おそらく禅興寺明月院玉隠弟子で、一時黙宗とともに、その会下で学んだと推定される香村なる僧の書状で明白です。そして、この書状以前に禅興寺の公帖を受けています。またそのころ、奥山方広寺仏殿を再興し終わったことも書いてあります。とすると、遠州に帰って数年以上は経っているはずです。同人のもう一通の年未詳の書状には「新命禅興黙宗堂上老師」が、「座断福山巨刹久秘台帖」、「挑無文印」とあり、この時期、禅興寺住持の命を断り、その公帖を隠し、方広寺無文元選の禅を追及している、と考えられていたようです。
禅興寺は鎌倉十刹第一位ですので、原則的には、たとえその寺で秉払を遂げたとしても、まず諸山の住持に命じられるはずです。ただ当時禅刹の官寺制度はかなり乱れていたので、諸山を飛ばして十刹に昇住することもあったか、また「和漢禅刹次第」では、奥山方広寺は諸山に列していたとするので、ここで住持を勤めたかいずれかだと思います。とにかく十刹禅興寺の公帖が発せられたのですが、承けませんでした。その理由は良くわかりません。方広寺再建中であったとしても、当時諸山十刹の住持になるためには、十貫文乃至五貫文(約五十万円~百五十万円)を幕府に納めなければなりませんでした。しかしこのくらいの金が用意できないわけがなく、住持職も居成り(坐公文)の可能性が高く、赴任する必要もないので、おそらくそれを見ていないのだと思います。これはいわば自ら五山の住持になる可能性を逃した、あるいは出世の道を自ら否定したことになります。
そしてわたしの邪推かもしれませんが、このことによって、黙宗は文叔に参じたのではないかと考えられます。おそらく、諸方偏参の間に、美濃瑞龍寺玉浦宗珉に参じたことがあって、再びその密参の禅に見えるため美濃に行ったのですが、既に玉浦は亡くなっていました。そこでその弟子の文叔の会下に入ったのだと思います。もしこれが正しければ、少なくとも、大永五年の数年後、享禄年間(1528~1532)ころでしょうか。大永五年に奥山正法寺に帰ったのは確かですから、「行状」のいう天文四年文叔葬儀後に遠州に帰り、方広寺伽藍再興に務めたというのは当たっていません。これは逆で、再興後に文叔に会ったのです。それで、方広寺派ではなく、妙心寺派としての龍泰寺を転派再興したのです。
また天文三年以前に、文叔より心印を授けられました。それは文叔の没年である天文四年(1535)冬に、黙宗が師文叔の肖像を描き、賛辞を求め、それを許されていることからも間違いありません。このとき諱を「智淵」から「瑞淵」へと変えたのだと思います。つまり、文叔瑞郁の諱の通字「瑞」を文叔からもらったことになります。文叔死没の一年前、天文三年に妙心に住持(奉勅入寺)し、嗣香を文叔に捧げたのです。
以上から、龍泰寺開創は大永五年から天文三年以前となりますが、もっと限定するとすれば享禄年間の1530年ころになるでしょうか。そして永禄三年に龍潭寺と改名します。
「行状」は龍泰寺在住の間に、禅興寺の公帖を受けたが断わったとし、さらに文叔の師、玉浦宗珉が開いた美濃大智寺に輪番し、住持に就いたといいます。そのしばらくあとに、妙心寺の綸命を受けたとします。そのときの亀年禅愉(1486~1561)の「同門疏」を載せています。亀年は妙心寺三十四世で、天文六年(1537)七月二十二日の大燈国師(宗峰妙超)二百年忌に「妙心當住亀年和尚」として頌を捧げています。『延宝聯燈録』では「奉勅入寺」となっていますが、同時に「函丈(住職の居室)に據坐すること六年」たって、この二百年忌に出会ったとも述べています。師の文叔が妙心寺瑞世の時、同門疏は六人すべてが前妙心、前大徳であり、そのほかの僧も、前真如など五山の住持の経験者が名を連ねています。それでこの同門疏を送った亀年は、このとき前妙心であったとすれば、天文六年は超えていなければなりませんが、今天文三年説をとっておきます。それで、黙宗の印証授与は天文三年よりは前ということになるのです。妙心寺入院にも礼銭を要し、およそ十五貫文(二百万円前後)くらいを払ったようです。美濃大智寺住持や亀年禅愉の同門疏などは、当該寺院に江戸時代存在していたのでしょう。
このあと「行状」は、城東郡金剛山貞永寺が天文年中寺運衰退し、法幢も続かなくなったので、駿河大竜山臨済寺太原崇孚が、使いを黙宗のもとに送って、これを再興するように頼んだ、といいます。住山数年、修造終わって、嗣法の弟子梅霖に託したとします。梅霖は天文二十三年(15554)寿像に法語を需めています。 臨済寺は、今川氏親母北河殿旧宅に建てられた善徳院を前身とし、天文五年(1536)今川氏輝の菩提のために、跡を継いだ義元が、氏輝の法号に因み、善得院を大竜山臨済寺と改めたものです。天文十年(1541)四月には、明叔慶浚が住持に招かれています。雪斎はもと九英承菊と名乗り、善徳寺琴渓承瞬会下にあって、のち京都建仁寺霊泉院常庵竜崇について学んでいました。そして天文十一年三月から同十三年二月までの間に、妙心寺霊雲院大休宗休に参じ、その法を嗣いで、太原崇孚と名乗ったと伝えます。同十七年三月の氏輝十三回忌には、臨済寺住持になっていて、山門・仏殿の修造に励んでいます。氏輝十三回忌には師の大休も法語を述べています。このあと、太原は大休を臨済寺住持に懇情し承諾を得ています。大休は翌年八月に亡くなっています。太原は同十九年妙心寺三十五世として、奉勅入寺します。またこの年六月二日義元室定恵院殿南室妙康大禅定尼が死没します。彼女は武田信玄姉で今川氏真母です。この葬儀には黙宗も加わり、鎖龕を勤めています。
年未詳の「臨済寺諸塔頭以下書立」は、今川義元の朱印が文書の継目部分に押してあり、永禄十二年正月十八日武田信玄が披見したものです。義元の時代に、貞永寺は既に臨済寺末寺になっており、永禄十二年には確かに梅霖座元が住持となっています。ついでにいうと、遠州安国寺であった貞永寺開山には、三つの説があり、夢窓派の玉峰殊圭(『豊鐘善鳴録』)あるいは妙圭(禅学大辞典等)とその弟子南溟殊鵬及び双峰通玄を嗣法し、浄妙寺を視篆した天祥源慶です。
嗣子は梅霖はじめ四人いて、元察に入野龍雲寺(浜松市南区)、宮口報恩寺(同市浜北区)祝田大藤寺を雪庵宗粕(二世)に、それぞれ任せます。龍潭寺を継いだ南渓瑞聞には、天文二十年(1551)に号「南渓」を授けています。また永禄三年(1560)今川義元葬儀において、梅霖が取骨、南渓が安骨を勤めています。 瑞岩山報恩寺は開山を勅諡廣鑑神應禅師=黙宗瑞淵、開基龍潭寺殿天運道鑑大居士=井伊直盛、天文二十三年に創建と伝えます。小和田哲男氏が過去帳から見つけた南渓瑞聞がそれまで言われていた井伊氏ではないとする説は正しいと思います。今川仮名目録追加によれば、男子なければ還俗させたはずですから。これは井伊直虎女子説にもいえることです。井伊氏庶流・奥山氏・小野氏もいるわけですから、嗣子がいないとは言えないわけです。
臨済寺以下の諸寺に関する事蹟については、はっきり言って確実な資料がないのでわかりません。貞永寺や龍雲寺、報恩寺は戦国時代から江戸時代にかけて、妙心寺派であるのは間違いないのですが。
黙宗の人となりを知る資料を、ここでひとつ挙げておきます。
「行状」には載っていませんが、天文の初めころ、甲府東光寺住持で、武田信玄の帰依厚かった仁甫珠善と三河で出会い、二十年以上に渉る交際が始まりました。仁甫は永正三年(1511)以前に、法蓋山東光寺(山梨県甲府市)に入山して、建長寺派から妙心寺派に変えました。信玄の伯父は仁甫につき得度し、藍田恵青と名乗り、東光寺住持となっています。天正十年(1582)武田氏滅亡後、織田信長は快川国師等七十人の僧を、恵林寺で焼き殺したが、その中に藍田は入っていました。この時快川が「心頭滅却すれば火もまた涼し」と頌を唱えたのは有名です。弘治三年(1559)妙心寺開祖祖師二百年忌を記念して、居成り三人が勅許され、美濃岩村大円寺希庵玄光推挙により、居成りの請書が下着し、信玄は一万疋(百貫文)を奉加するというごとく、仁甫を深く崇敬していました。しかし仁甫はその前の弘治二年五月急死してしまいます。黙宗は居成り勅許前に仁甫に手紙を書いています。
天文二十三年(1554)四月六日、安祥示寂したと、「行状」は書きます。
こうした顔の広さと足利学校で学んだ兵法や易学は、井伊氏の動向について大きな影響を与えたと思うのですが、龍潭寺所蔵の諸伝はほとんど語ろうとしません。
井伊谷龍潭寺所蔵「開山黙宗大和尚行実」は「往々拠旧記、不下敢以臆断妄有中増損上、其意無他」という姿勢で、享和三年(1803)に、「僧某」によって書かれたものです。多少の間違いはあるとしても、多くは龍潭寺そのほかの黙宗和尚在世時の資料を用いていて、その姿勢は評価に値すると言えるでしょう。「僧某」が誰かはわかりません。
龍潭寺にとって、というより戦国期の井伊谷にとって、黙宗和尚は最も重要な人物の一人ですが、意外や、まともに取り上げた伝は管見の限りひとつだけです。たとえば、延宝八年(1680)当住徹叟著「萬松山龍潭寺草創之由来」では、寺宝の扇子にかけて、黙宗が美濃瑞龍寺に何年も参敲していたが、終に信濃松源寺において文叔と出会い、そのもとで修行得法し、帰郷後一禅刹を開き、開山第一祖に文叔を迎えた、ということが先の扇子の奇瑞に照応するとあります。つまり黙宗について、簡単に紹介しているにすぎません。『井伊家伝記』ではもっと簡素で、数行に止めています。わずかに、先の「行実」が詳細に伝えているにすぎません。黙宗和尚の伝記を書いた僧が、その優れた仕上がりにも関わらず、自らの名を書かず、たんに「某」としか名乗らなかったのは、何か訳がありそうですが、理由はついにわからないままです。
(ⅰ)僧としての前半生
黙宗は若いころ、奥山方広寺派正法寺雲庵怡公禅師の下で得度し、修行しました。初名を智淵と安名されました。渋川村万福寺に、応永三年(1396)三月八日付「奉造立万福寺」棟札に「住持大雲智範誌之」1とあり、この寺が早くに方広寺派下に入っているので、この派に通字「智」をもつ僧がいることがわかります。そこでこの派の僧である雲庵怡公は、智淵の通字「智」からも、諱は智怡である可能性が高いでしょう。
そののち何年かして、井伊谷自浄院に文叔和尚が来ていることを知り、その名声を慕い参じました。同じようにまた多くの雲水が参集し、その中には後の文伯瑞璵(後に号九華
)もいました、とこう書きます。
しかし先に述べたように、文叔和尚は井伊谷には来ていません。江戸時代に入ってそう書かれた資料があったのでしょう。以下、誤解と思えるものはこの類です。
やがてこの地を離れ、足利学校に遊学します。関東管領上杉憲実(1410~1466)が再興してからの足利学校は、「教養も戦争に直接間接に関係あるような書物から得た兵書や特に『周易』を中心とする易の書物が重んじられ」「戦国時代には、各地域の大名のところに就職」するような者を養成するところであったのです。その後、のちに公帖を受けることになる、鎌倉十刹の第一位福源山禅興寺中興で、前建長玉隠英璵(1432~1524)に参じます。玉隠は信濃人滋野氏の出身、蘭渓道隆の法系大覚派の器庵僧達に嗣法しました「鎌倉五山の最後を飾る知識人」と言われています。懶庵、玉澗あるいは聴松軒とも号し、明応七年(1498)将軍足利義高により建長寺一六四世住持になっています。任解けて禅興寺明月院に退去し、長くここに住んでいます。
永正三年(1506)夏、智淵は玉隠から「字説」を受け、道号「黙宗」を与えられます。玉隠は「字説」を多くの人に授けたらしく、『静岡県史 資料集 中世4』にも玉隠が授けた「字説」が二つあります。ただ、後年禅興寺の公帖が黙宗に届けられたのは、この玉隠による推薦があったと考えられ、強い師弟関係が築かれていたと推測できます。また憶測にすぎませんが、この禅興寺で秉払を遂げたのかも知れません。秉払は五頭主(前・後堂首座、書記、東・西蔵主)が住持の替わりに、登壇し、問答・提要・謝語等上堂作法を行うことで、これを経験して、五山における諸山の住持となる資格を得ることができるのです。
やがて玉隠を辞して、諸方遍参の旅に出て美濃瑞龍寺悟渓宗頓に謁するとありますが、悟渓は明応九年(1500)に寂しているので、これは誤りです。また文叔の師、玉浦宗珉に見えるなど名山勝刹を訪ねています。そして信濃松源寺文叔禅師に参じ、永正十二年文叔が妙心寺住持を勤めた際にも、片時も側を離れず助けたと言います。ただ文叔の住持職は三日で終わるもので、玉浦、独秀乾才等が器と認めたとありますが、これも疑問ですし、独秀は前年永正十一年(1514)八月寂ですので、黙宗と出会ったかどうかもはなはだ疑問です。
文叔の任解けて帰山するときにも、黙宗は従ったといいます。このあと文叔の葬儀を終えて、遠州に帰り、招かれて浦川村(旧佐久間町)桐井山東福寺の開山始祖になりました。幾ばくならず、奥山正法寺に帰り、廃退していた方広寺伽藍の再興に尽くしています。また奥山親朝、井伊直平・直盛の帰依を得ました。こう「行状」は書きます。
この「玉隠を辞して」以降の段落は、とくに疑問のあるところなので、少し詳しくみていくことにします。
黙宗が遠州に帰り、奥山に入ったのは大永五年(1525)秋八月です5。玉隠のもとを去って、約二十年弱経っていました。このことは、おそらく禅興寺明月院玉隠弟子で、一時黙宗とともに、その会下で学んだと推定される香村なる僧の書状で明白です。そして、この書状以前に禅興寺の公帖を受けています。またそのころ、奥山方広寺仏殿を再興し終わったことも書いてあります。とすると、遠州に帰って数年以上は経っているはずです。同人のもう一通の年未詳の書状には「新命禅興黙宗堂上老師」が、「座断福山巨刹久秘台帖」、「挑無文印」とあり、この時期、禅興寺住持の命を断り、その公帖を隠し、方広寺無文元選の禅を追及している、と考えられていたようです。
禅興寺は鎌倉十刹第一位ですので、原則的には、たとえその寺で秉払を遂げたとしても、まず諸山の住持に命じられるはずです。ただ当時禅刹の官寺制度はかなり乱れていたので、諸山を飛ばして十刹に昇住することもあったか、また「和漢禅刹次第」では、奥山方広寺は諸山に列していたとするので、ここで住持を勤めたかいずれかだと思います。とにかく十刹禅興寺の公帖が発せられたのですが、承けませんでした。その理由は良くわかりません。方広寺再建中であったとしても、当時諸山十刹の住持になるためには、十貫文乃至五貫文(約五十万円~百五十万円)を幕府に納めなければなりませんでした。しかしこのくらいの金が用意できないわけがなく、住持職も居成り(坐公文)の可能性が高く、赴任する必要もないので、おそらくそれを見ていないのだと思います。これはいわば自ら五山の住持になる可能性を逃した、あるいは出世の道を自ら否定したことになります。
そしてわたしの邪推かもしれませんが、このことによって、黙宗は文叔に参じたのではないかと考えられます。おそらく、諸方偏参の間に、美濃瑞龍寺玉浦宗珉に参じたことがあって、再びその密参の禅に見えるため美濃に行ったのですが、既に玉浦は亡くなっていました。そこでその弟子の文叔の会下に入ったのだと思います。もしこれが正しければ、少なくとも、大永五年の数年後、享禄年間(1528~1532)ころでしょうか。大永五年に奥山正法寺に帰ったのは確かですから、「行状」のいう天文四年文叔葬儀後に遠州に帰り、方広寺伽藍再興に務めたというのは当たっていません。これは逆で、再興後に文叔に会ったのです。それで、方広寺派ではなく、妙心寺派としての龍泰寺を転派再興したのです。
また天文三年以前に、文叔より心印を授けられました。それは文叔の没年である天文四年(1535)冬に、黙宗が師文叔の肖像を描き、賛辞を求め、それを許されていることからも間違いありません。このとき諱を「智淵」から「瑞淵」へと変えたのだと思います。つまり、文叔瑞郁の諱の通字「瑞」を文叔からもらったことになります。文叔死没の一年前、天文三年に妙心に住持(奉勅入寺)し、嗣香を文叔に捧げたのです。
以上から、龍泰寺開創は大永五年から天文三年以前となりますが、もっと限定するとすれば享禄年間の1530年ころになるでしょうか。そして永禄三年に龍潭寺と改名します。
「行状」は龍泰寺在住の間に、禅興寺の公帖を受けたが断わったとし、さらに文叔の師、玉浦宗珉が開いた美濃大智寺に輪番し、住持に就いたといいます。そのしばらくあとに、妙心寺の綸命を受けたとします。そのときの亀年禅愉(1486~1561)の「同門疏」を載せています。亀年は妙心寺三十四世で、天文六年(1537)七月二十二日の大燈国師(宗峰妙超)二百年忌に「妙心當住亀年和尚」として頌を捧げています。『延宝聯燈録』では「奉勅入寺」となっていますが、同時に「函丈(住職の居室)に據坐すること六年」たって、この二百年忌に出会ったとも述べています。師の文叔が妙心寺瑞世の時、同門疏は六人すべてが前妙心、前大徳であり、そのほかの僧も、前真如など五山の住持の経験者が名を連ねています。それでこの同門疏を送った亀年は、このとき前妙心であったとすれば、天文六年は超えていなければなりませんが、今天文三年説をとっておきます。それで、黙宗の印証授与は天文三年よりは前ということになるのです。妙心寺入院にも礼銭を要し、およそ十五貫文(二百万円前後)くらいを払ったようです。美濃大智寺住持や亀年禅愉の同門疏などは、当該寺院に江戸時代存在していたのでしょう。
このあと「行状」は、城東郡金剛山貞永寺が天文年中寺運衰退し、法幢も続かなくなったので、駿河大竜山臨済寺太原崇孚が、使いを黙宗のもとに送って、これを再興するように頼んだ、といいます。住山数年、修造終わって、嗣法の弟子梅霖に託したとします。梅霖は天文二十三年(15554)寿像に法語を需めています。 臨済寺は、今川氏親母北河殿旧宅に建てられた善徳院を前身とし、天文五年(1536)今川氏輝の菩提のために、跡を継いだ義元が、氏輝の法号に因み、善得院を大竜山臨済寺と改めたものです。天文十年(1541)四月には、明叔慶浚が住持に招かれています。雪斎はもと九英承菊と名乗り、善徳寺琴渓承瞬会下にあって、のち京都建仁寺霊泉院常庵竜崇について学んでいました。そして天文十一年三月から同十三年二月までの間に、妙心寺霊雲院大休宗休に参じ、その法を嗣いで、太原崇孚と名乗ったと伝えます。同十七年三月の氏輝十三回忌には、臨済寺住持になっていて、山門・仏殿の修造に励んでいます。氏輝十三回忌には師の大休も法語を述べています。このあと、太原は大休を臨済寺住持に懇情し承諾を得ています。大休は翌年八月に亡くなっています。太原は同十九年妙心寺三十五世として、奉勅入寺します。またこの年六月二日義元室定恵院殿南室妙康大禅定尼が死没します。彼女は武田信玄姉で今川氏真母です。この葬儀には黙宗も加わり、鎖龕を勤めています。
年未詳の「臨済寺諸塔頭以下書立」は、今川義元の朱印が文書の継目部分に押してあり、永禄十二年正月十八日武田信玄が披見したものです。義元の時代に、貞永寺は既に臨済寺末寺になっており、永禄十二年には確かに梅霖座元が住持となっています。ついでにいうと、遠州安国寺であった貞永寺開山には、三つの説があり、夢窓派の玉峰殊圭(『豊鐘善鳴録』)あるいは妙圭(禅学大辞典等)とその弟子南溟殊鵬及び双峰通玄を嗣法し、浄妙寺を視篆した天祥源慶です。
嗣子は梅霖はじめ四人いて、元察に入野龍雲寺(浜松市南区)、宮口報恩寺(同市浜北区)祝田大藤寺を雪庵宗粕(二世)に、それぞれ任せます。龍潭寺を継いだ南渓瑞聞には、天文二十年(1551)に号「南渓」を授けています。また永禄三年(1560)今川義元葬儀において、梅霖が取骨、南渓が安骨を勤めています。 瑞岩山報恩寺は開山を勅諡廣鑑神應禅師=黙宗瑞淵、開基龍潭寺殿天運道鑑大居士=井伊直盛、天文二十三年に創建と伝えます。小和田哲男氏が過去帳から見つけた南渓瑞聞がそれまで言われていた井伊氏ではないとする説は正しいと思います。今川仮名目録追加によれば、男子なければ還俗させたはずですから。これは井伊直虎女子説にもいえることです。井伊氏庶流・奥山氏・小野氏もいるわけですから、嗣子がいないとは言えないわけです。
臨済寺以下の諸寺に関する事蹟については、はっきり言って確実な資料がないのでわかりません。貞永寺や龍雲寺、報恩寺は戦国時代から江戸時代にかけて、妙心寺派であるのは間違いないのですが。
黙宗の人となりを知る資料を、ここでひとつ挙げておきます。
「行状」には載っていませんが、天文の初めころ、甲府東光寺住持で、武田信玄の帰依厚かった仁甫珠善と三河で出会い、二十年以上に渉る交際が始まりました。仁甫は永正三年(1511)以前に、法蓋山東光寺(山梨県甲府市)に入山して、建長寺派から妙心寺派に変えました。信玄の伯父は仁甫につき得度し、藍田恵青と名乗り、東光寺住持となっています。天正十年(1582)武田氏滅亡後、織田信長は快川国師等七十人の僧を、恵林寺で焼き殺したが、その中に藍田は入っていました。この時快川が「心頭滅却すれば火もまた涼し」と頌を唱えたのは有名です。弘治三年(1559)妙心寺開祖祖師二百年忌を記念して、居成り三人が勅許され、美濃岩村大円寺希庵玄光推挙により、居成りの請書が下着し、信玄は一万疋(百貫文)を奉加するというごとく、仁甫を深く崇敬していました。しかし仁甫はその前の弘治二年五月急死してしまいます。黙宗は居成り勅許前に仁甫に手紙を書いています。
天文二十三年(1554)四月六日、安祥示寂したと、「行状」は書きます。
こうした顔の広さと足利学校で学んだ兵法や易学は、井伊氏の動向について大きな影響を与えたと思うのですが、龍潭寺所蔵の諸伝はほとんど語ろうとしません。
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