奥浜名湖の歴史をちょっと考えて見た

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遠江国引佐郡の式内社(1)渭伊神社

2022-04-21 10:19:32 | 郷土史
延喜式神明帳遠江国には「引佐郡六座並小」とあり、渭伊 ・乎豆・三宅・蜂前・須部・大煞(れんが無)格神社が記載されています。全体として比定を試みているのは寛政元(1780)年完成の『遠江国風土記伝』が早い例です。
 ①渭伊神社
  井伊郷神宮寺村正八幡宮。これとは別に、南の他の中にある湧水を井大神として祀る。この井が地名の由来とします。三代実録、貞観八年十二月二十六日、従五位を授けられた「蟾渭神」もこの神だとします。
 この「蟾渭神」は渭伊神社の神ではありません。第一に、「蟾」は月(ニクヅキ)ではなく、虫偏ですので訓は「ヒキ」(ヒキガエルの意)、音は「セン」で「イ」ではありません。この「イ」は当時の発音では「ウィ」で、「伊」は「イ」で異なる発音です。「渭伊」は「ウィイ」です。ところが、「渭」は「ウィ」ですので「渭伊」とは平安時代の発音では違っていますし、和名抄の地名では「ヌマ・ヌ」(沼)としての使用法のほが多いのです。例えば群馬県の沼田は「渭田」と表記されます。したがって、「蟾渭」の読みは「ヒキヌマ」で、この神は遠江国長上郡「ヒキヌマ」郷の神です。同郡蒲大神のように、三大実録において叙されながら式内社とはならなかったのです。
 神宮寺村正八幡宮は今の天白磐座遺跡の地ですから妥当でしょう。井大神は龍潭寺前の井伊共保出生の井ですが、本当に当時からあったかどうかは不明です。井戸は定期的に底をさらわなければ浅くなって死に水になります。現在囲ってあるのは江戸時代に彦根藩主が金を出して祀りなおしたものです。それ以前は浅くなって山井のようだと中井氏が書いています。史料上の初見は井伊直平が井料寄進した書状ですが、井料は井が田への配水のために修理保持するための費用です。また御手洗といわれるように、貴人の使用によって
特定の用途にしかしようできない「御井」ではありません。また、井戸替えには井戸神に捧げた物、石であったり陶器であったりを取り上げ、再び井の底に納めるのですがそれが出たという話も聞きません。
 むしろ、井の名称は渭伊神社真北のうなぎ井戸、現白岩水神社によるとしたほうが良いでしょう。前に書いたようにおそらく両者は一体でした。日本天台宗開祖最澄のいう「白岩神」もこの神ではないかと思えるのです。最澄でないにしても、第三世天台座主円仁は東国出身で、東海道も上下し、参河国国府においても薬師如来が国分寺の本尊であったことから、早い時代に天台僧がこの地に関わった可能性は十分あります。この神を含む浜名湖西の山系は十世紀には天台宗を中心とする一大宗教圏を形成していました。おそらく、奈良時代には白岩の神は祀られていたと思います。それは、天白磐座遺跡のみならず、タチスの峰との位置関係から推測することができます。 



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