井伊直平が井料田三反寄進した「龍泰寺」も、どういった寺院であったのかは明らかではありませんが、妙心寺派でなかったことだけは確かでしょう。
問題は、この寄進の対象は「龍泰寺」なのですが、その「井」を管掌していたのは、支院「某」(地蔵寺または自清院)であったのかどうかもまだわかりません。なにしろ、龍泰寺の規模が不明なのですから。私見では、この寄進は領主直平が、井伊氏出誕の象徴的な「井」の祭祀をおもねたことを意味するわけです。さらにこの永正以前、明応七年(1489)七月の大地震、また今川氏親の遠江侵攻により、文亀年間(1501~1504)斯波氏との戦いが浜名湖周辺を含む天竜川西所々で行われ、井伊氏も相当の打撃を被ったはずです。今川氏親が遠江を一応手に入れ、三河進攻に向かっていた数年の安息時に、この寄進が実施されたわけで、実質的な龍泰寺の中興、あるいは創建であったのかも知れません。井料三反は、ほぼ僧三人が一年食べていける程度ですが、おそらく服部英雄氏のいう「門田」と同じ機能を持ったものと思われます。すなわち、中世農業の旱魃に対する脆弱性とは逆に、井という湧水は日照りに強く、回りの稲が白くなっても、井(湧水)による田は黄金色の稔りをもたらします。農民は種籾すら旱魃による飢饉で食べ尽くすのですが、井という水がかりの良い門田の領主は、米を蓄えて出挙で貸し出す。しかも通常利率五分のところを倍の十分で貸し付けるのです。つまり金融の元手ともなりえる田でもあったのです。ですから、領主や寄進された寺にとっては、ありがたい「井」ですが、農民にとっては「御手洗井」にすぎず、とくに村の祭りに組み込まれることはありませんでした。
この寄進対象は、のちに自清院領と言われるように、一子院の年料にすぎず、寺院経済を支えるほどではありません。さらに三年後の永正七年冬からは、井伊谷を主戦場とする数年に及ぶ戦いが始まり、この寺も、八幡宮も焼き尽くされたはずです。またその後も永正十三年(1516)より翌年にかけ、大河内氏が斯波氏を語らい、当国牢人等、信濃国国人を催し、今川氏と合戦に及び、氏親が完全に遠江を掌握するのは、翌々十五年三月です。井伊郷にもやっと息が就ける日々が訪れ、神社寺院の再建修造も始まります。ただ永正十年ころ、井伊谷三岳城城番に、三河奥平貞昌が就き、大永元年(1521)小野兵庫助と祝田禰宜との土地相論を守護氏親が裁定するなど、一時的に井伊氏は国人領主としての地位に動揺があったようです。
戦乱の傷は深く、奥山方広寺再建には、大永五年(1525))以来着手した黙宗が数年を費やしたと思われるように、井伊谷での寺院神社再建修造もこのころでしょう。大永六年井伊八幡宮梵鐘・享禄元年(1528)同宮鰐口を井伊直隆が寄進しているので、この大永六年をあまり遡らない時期に、八幡宮は再建されたのでしょう。つまり大永年間に、八幡宮別当寺は再建されているのです。しかしこの什物の勧進は、真言系の勧進僧によると思われるので、別当寺は依然真言系の修験寺院でしょうか。あるいは方広寺派の禅宗寺院であったかでしょう。
天文六年(1539)二月甲駿同盟成立で始まった、第一次河東一乱において、北条氏綱は堀越貞基および井伊氏と手を結び、奥平九七郎を誘い、今川氏へ反旗を掲げるよう要請したのです。結果、堀越氏の見附端城は攻められ、落城しました。井伊直盛の文献上の初見は、このあと、天文八年(1541)五月祝田喜三郎に、今度の戦い参加への給分を与える旨の書状です。この直盛が共保「出生の井を中央に被成、東西南北の境相立、寺領幷境内龍潭寺之御寄進」(『井伊家伝記』)したとされます。ところが、直盛父直宗は天文十一年(1543、井伊家伝記・位牌)、あるいは天文二十三年(1554、井伊家伝記「井伊家略系」)没で、後者は直平代理として、田原城戦死と載せますが、天文八年以降永禄三年(1560)までの井伊谷での発給文書は、すべて直盛が差出人になっているので、この間井伊郷支配は直盛が行っていたはずです。そこで思い浮かぶのは、先の北条氏綱への与同、すなわち今川義元への謀反が直宗代にあったのではないかという疑問です。そこで直宗は自刃したか隠居したかで、直盛が跡を継いだのでしょう。北条氏への寝返りは、井伊家に何の利益ももたらしません。だからその死も隠されたものとされ、一定していないのだと思います。直盛父直宗は、こうした事情で「直宗」の「宗」と同じ読み「たかし・とき」を持ち、意味も縁起の良い「隆」に変え、「直隆」としたのだとも考えられます。直平と直盛以前には、井伊氏関係では「直広」と「直隆」の二人しか資料に現れません。このうち永正十七年河名村六所大明神再建大檀那「直広」は、正確なところはわかりませんが、「直隆」は井伊郷八幡宮への寄進檀那であり、直盛登場以後は姿を現しません。そこで、直平後、直盛までの井伊郷領主であろうと思われます。諸系図には載っていませんが、北条氏への与同がおそらく一族・家臣の反対するところだったからでしょう。
これが正しいとすれば、直平・直宗(または直盛)代に最初に創建された龍泰寺は妙心寺派の寺でなく、その後大永年間(後出)に同じく直平・直宗(または直盛)が黙宗瑞淵を請じて転派して妙心寺派となったのです。というのも、黙宗瑞淵は、天文三年(1534)に妙心寺住持(居なり)に瑞世していて、おそらくここで初めて文叔に嗣香して、諱智淵から「瑞淵」となったのです。これ以前に師文叔から印証を授けられ、翌年十二月、師の画像に賛を需め、許されています。その直後、師文叔は示寂しています。その葬儀に参列し、帰郷するのですが、その間遠江国浦川村に桐井山東福寺を創建するなどしています。「行実」では、帰郷して奥山正法寺に入ると書き、またその後香村の書簡が届き、さらに自浄院に遷るといいますが、これは誤解です。井伊谷に帰ってきて、井伊直平・直宗(直盛)がもと真言系修験寺院あるいは方広寺派の寺であった龍泰寺を革めて、寺領を寄進して、黙宗を請じたのですが、黙宗は、文叔を開山に勧請し、自らは二世になったのです。
さてこのときの龍泰寺再興が『井伊家伝記』」のいう井伊直盛寄進状のように、井を中心に東西南北の境界を定めた地であったとすると、八幡宮は既に殿村(現在地)に移遷されていた可能性が高いでしょう。その正確な時期はわかりません。このことについては、黙宗和尚伝の項で述べます。
(ロ)八幡宮と「井」の祭祀
八幡宮の性格のひとつに脇田晴子氏は、新羅侵攻の神功皇后伝説が、蒙古襲来以後『八幡愚童神』などにより、国粋主義的風潮の中で注目され、お産を抑え渡韓し、帰国後応神天皇出産という伝説にしたがって産神としても脚光を浴び、各在地にある名もない産神が神功皇后という皇室祖先神と習合するという現象が顕著になった、と述べています。
これは井伊八幡宮にも言えることだと思います。南北朝ころには確実に、井伊氏の氏神になっていたと考えられますが、室町時代中期ころまでは、武神であるとともに産神信仰の神でもあったわけです。「井」の祭祀は、正月修正会の香水=若水を提供する井戸であり、その後の粥占神事の聖水でもあったのですが、「井」そのものは祭祀の対象ではありませんでした。『井伊家伝記』は「龍潭寺中自浄院と申は往古元祖共保公出誕の節生湯を御掛候古跡霊地なり。右自浄院往古は地蔵寺と申候。地蔵寺を改て自浄院とは申なり」とあり、「地蔵寺」が「自浄院」の前身であると述べています。しかしそのすぐあとに、「神宮寺八幡宮御輿は往古龍潭寺より造立、右棟札にも龍潭寺中地蔵院と有之」とあるのです。しかも今の御輿は私(祖山和尚)が中興したものだとも言っています。八幡宮御輿は、これ以前の寛永十六年(1639)八月十五日新造の記録があります。これは龍潭寺歴代では昊天和尚代ですので、もう何十年かあと、祖山和尚が中興したわけです。すなわち、永禄三年龍泰寺が「龍潭寺」に改名以後にも「地蔵寺」は存在したわけです。
ですから、「地蔵寺」が「自浄院」に変わったというのは信じられません。龍泰寺時代には直平から井料寄進の際に、井伊祖共保出誕の井としたため、共保の霊の鎮魂を義務付けられたのは「龍泰寺」でした。それまでは特に、井に関係する祭事の記録はなく、井料寄進により祭事をしなければならなくなった。そこで龍泰寺内にとくに井を管掌する小院が必要になったのです。それでもともと八幡宮の御手洗の井の前にあつた「地蔵寺」(堂)を龍泰寺子院とした。地蔵はあの世とこの世を結ぶ仏で、「井」もまたあの世とこの世の通路です。ところが龍泰寺が、永禄三年、火災により延焼し、「直盛菩提」のために、新地(現在地)に建立されました。そのため、改名した龍潭寺にとっては、行輝寂明菩提を弔うことは二次的なものになり、また同時に八幡宮を「殿村の薬師山」(現在地)に移し、その跡地に新しい寺、龍潭寺を建てたため、「八幡宮御手洗の井」はその機能を失ったわけです。そもそも「八幡宮御手洗の井」から始祖共保が出誕したとすれば、それは八幡宮の祭神による奇瑞であるべきです。ところが、その八幡宮が移され、新たに龍潭寺が建てられたため、永録五年(1562)以前に、新たに龍潭寺内の「自清院」が「井」の管掌を引き継いだのです。「自浄院」ではありません。
永禄十一年(1568)、德川家康は井伊谷に兵を進め井伊城を陥落させます。さらに元亀四年(1573)には井伊谷は德川・武田氏の戦場と化します。そこで八幡宮御輿は、天正年間以降、多分家康が龍潭寺領を安堵した天正十四年(1586)ころより後だと思われます。そうなると、「次郎法師寄進状」の永禄八年から約二十年後には以前「地蔵寺」が存在していたことになります。しかし天正十七年(1589)「龍潭寺検地帳」では、たんに「地蔵前」であり、「地蔵寺」はありません。また「正保四年丁亥(1647)十一月廿一日に長田井の元に井伊殿の社を初て立申候」「則棟札に書のせ申し候。此節通り道無之に付て田中より本道のおもてへほそ道を付申し候」とあり、また延宝八年(1680)徹叟和尚の「由緒」中にある「年中行事次第」にも、特に「井」について祭事はありません。「誕生の井」そのものは、長い間、せいぜい正月の若水くらいにしか用がなかったのでしょう。この「井」が現在のように体裁が整う始めは、江戸時代貞享五年(1688)彦根藩主井伊直興の寄進により修理したからです。それ以降何度か修理していて、今の形になったのです。明治の公図に「井」を中心に囲む四方を「地蔵寺」となったのは、この地に地藏を祀っていたからでしょう。
ここまでを整理すると、龍潭寺と地蔵院(堂)は同じ時期に存在していたのでがあり、後者は前者の一子院であったわけです。地蔵寺が自浄院(自清院)になったという言葉の裏には、両寺が同じ性格の、すなわち「井」を管掌していたという認識が隠されています。ところで「井」の管掌は、直平による龍泰寺への井料寄進以降、永禄八年(一五六五)次郎法師の南渓和尚宛寄進状まで、確かなことはわかりません。この間、井伊直盛による寄進がありますが、おそらく龍泰寺宛寄進で、寄進の対象は次の今川氏真と同じだと思いますが、氏真は、亡き直盛の菩提を弔うために、新地に寺を建立し、寺名を改め、龍潭寺宛寄進状として発給されますが、これまで直平以外に「井」について述べた文書はありません。ところが、五年後の「次郎法師寄進状」には、直盛菩提所としての龍潭寺に触れ、そこに当寺領の内に、「自清院領」として「為行輝(共保)菩提所、西月(直平)寄進之上者云々」とあるので、先の直盛・氏真寄進状の「諸末寺」に、「自清院」が含まれていたと考えることができます。「清」の音は「セイ・ショウ」、つまり文字通り「清音」です。「浄」の字は意味は同じで、漢音では「セイ」と濁らないのですが、仏教で通常使用する呉音では「ジョウ」と濁ります。ですから、「清」と「浄」とは音が違うのです。これは発給した次郎法師も龍潭寺と関係深い人物であり、受給者もその対象の名称を誤ることはないでしょうから、「自清院」であって、決して「自浄院」ではなかったのです。すなわち次郎法師の時代は、「自清院」が「井」を管掌していたのですが、他方、先に見たように、龍潭寺改名後にも「地蔵寺」もあったわけです。寺伝からすれば、「地蔵寺」が「自浄院」に変わったとするので、これは実際には、「地蔵寺」が「自清院」に変わったのでしょう。あるいは、地蔵寺が何らかの理由で退転して、自清院が地蔵寺を受け継いだものでしょう。
「自浄庵」は、寺の名称からすると、至徳元年(1384)から明徳元年(1390)閏三月の間に、おそらく井伊氏一族かその庶流に関わる、円通寺僧某の母自浄庵主松岩大姉の初七日を修している文書に名が上がります。この「自浄庵」は尼寺で、円通寺とともに、創建年代は不詳ですが、無文禅師の奥山来住後は、ともども方広寺派に変わったと考えられます。この「自浄庵」と龍潭寺内自浄庵との関係は、ちょっとわからないのですが、無関係とはいえません。円通寺は、宗良親王念持仏と伝える観音菩薩を本尊とする寺で、最初は井伊道政屋敷跡に建てられたと伝えます。天文十三年(1544)井伊直満・直義両人が、駿府で今川義元に誅殺されたあと、しばらくして直満の屋敷に移ったといいます。たぶん現在の晋行寺のところだと思いますが、移転以前の場所は不明です。松岩大姉の「自浄庵」がどうなったかは不明です。
問題は、この寄進の対象は「龍泰寺」なのですが、その「井」を管掌していたのは、支院「某」(地蔵寺または自清院)であったのかどうかもまだわかりません。なにしろ、龍泰寺の規模が不明なのですから。私見では、この寄進は領主直平が、井伊氏出誕の象徴的な「井」の祭祀をおもねたことを意味するわけです。さらにこの永正以前、明応七年(1489)七月の大地震、また今川氏親の遠江侵攻により、文亀年間(1501~1504)斯波氏との戦いが浜名湖周辺を含む天竜川西所々で行われ、井伊氏も相当の打撃を被ったはずです。今川氏親が遠江を一応手に入れ、三河進攻に向かっていた数年の安息時に、この寄進が実施されたわけで、実質的な龍泰寺の中興、あるいは創建であったのかも知れません。井料三反は、ほぼ僧三人が一年食べていける程度ですが、おそらく服部英雄氏のいう「門田」と同じ機能を持ったものと思われます。すなわち、中世農業の旱魃に対する脆弱性とは逆に、井という湧水は日照りに強く、回りの稲が白くなっても、井(湧水)による田は黄金色の稔りをもたらします。農民は種籾すら旱魃による飢饉で食べ尽くすのですが、井という水がかりの良い門田の領主は、米を蓄えて出挙で貸し出す。しかも通常利率五分のところを倍の十分で貸し付けるのです。つまり金融の元手ともなりえる田でもあったのです。ですから、領主や寄進された寺にとっては、ありがたい「井」ですが、農民にとっては「御手洗井」にすぎず、とくに村の祭りに組み込まれることはありませんでした。
この寄進対象は、のちに自清院領と言われるように、一子院の年料にすぎず、寺院経済を支えるほどではありません。さらに三年後の永正七年冬からは、井伊谷を主戦場とする数年に及ぶ戦いが始まり、この寺も、八幡宮も焼き尽くされたはずです。またその後も永正十三年(1516)より翌年にかけ、大河内氏が斯波氏を語らい、当国牢人等、信濃国国人を催し、今川氏と合戦に及び、氏親が完全に遠江を掌握するのは、翌々十五年三月です。井伊郷にもやっと息が就ける日々が訪れ、神社寺院の再建修造も始まります。ただ永正十年ころ、井伊谷三岳城城番に、三河奥平貞昌が就き、大永元年(1521)小野兵庫助と祝田禰宜との土地相論を守護氏親が裁定するなど、一時的に井伊氏は国人領主としての地位に動揺があったようです。
戦乱の傷は深く、奥山方広寺再建には、大永五年(1525))以来着手した黙宗が数年を費やしたと思われるように、井伊谷での寺院神社再建修造もこのころでしょう。大永六年井伊八幡宮梵鐘・享禄元年(1528)同宮鰐口を井伊直隆が寄進しているので、この大永六年をあまり遡らない時期に、八幡宮は再建されたのでしょう。つまり大永年間に、八幡宮別当寺は再建されているのです。しかしこの什物の勧進は、真言系の勧進僧によると思われるので、別当寺は依然真言系の修験寺院でしょうか。あるいは方広寺派の禅宗寺院であったかでしょう。
天文六年(1539)二月甲駿同盟成立で始まった、第一次河東一乱において、北条氏綱は堀越貞基および井伊氏と手を結び、奥平九七郎を誘い、今川氏へ反旗を掲げるよう要請したのです。結果、堀越氏の見附端城は攻められ、落城しました。井伊直盛の文献上の初見は、このあと、天文八年(1541)五月祝田喜三郎に、今度の戦い参加への給分を与える旨の書状です。この直盛が共保「出生の井を中央に被成、東西南北の境相立、寺領幷境内龍潭寺之御寄進」(『井伊家伝記』)したとされます。ところが、直盛父直宗は天文十一年(1543、井伊家伝記・位牌)、あるいは天文二十三年(1554、井伊家伝記「井伊家略系」)没で、後者は直平代理として、田原城戦死と載せますが、天文八年以降永禄三年(1560)までの井伊谷での発給文書は、すべて直盛が差出人になっているので、この間井伊郷支配は直盛が行っていたはずです。そこで思い浮かぶのは、先の北条氏綱への与同、すなわち今川義元への謀反が直宗代にあったのではないかという疑問です。そこで直宗は自刃したか隠居したかで、直盛が跡を継いだのでしょう。北条氏への寝返りは、井伊家に何の利益ももたらしません。だからその死も隠されたものとされ、一定していないのだと思います。直盛父直宗は、こうした事情で「直宗」の「宗」と同じ読み「たかし・とき」を持ち、意味も縁起の良い「隆」に変え、「直隆」としたのだとも考えられます。直平と直盛以前には、井伊氏関係では「直広」と「直隆」の二人しか資料に現れません。このうち永正十七年河名村六所大明神再建大檀那「直広」は、正確なところはわかりませんが、「直隆」は井伊郷八幡宮への寄進檀那であり、直盛登場以後は姿を現しません。そこで、直平後、直盛までの井伊郷領主であろうと思われます。諸系図には載っていませんが、北条氏への与同がおそらく一族・家臣の反対するところだったからでしょう。
これが正しいとすれば、直平・直宗(または直盛)代に最初に創建された龍泰寺は妙心寺派の寺でなく、その後大永年間(後出)に同じく直平・直宗(または直盛)が黙宗瑞淵を請じて転派して妙心寺派となったのです。というのも、黙宗瑞淵は、天文三年(1534)に妙心寺住持(居なり)に瑞世していて、おそらくここで初めて文叔に嗣香して、諱智淵から「瑞淵」となったのです。これ以前に師文叔から印証を授けられ、翌年十二月、師の画像に賛を需め、許されています。その直後、師文叔は示寂しています。その葬儀に参列し、帰郷するのですが、その間遠江国浦川村に桐井山東福寺を創建するなどしています。「行実」では、帰郷して奥山正法寺に入ると書き、またその後香村の書簡が届き、さらに自浄院に遷るといいますが、これは誤解です。井伊谷に帰ってきて、井伊直平・直宗(直盛)がもと真言系修験寺院あるいは方広寺派の寺であった龍泰寺を革めて、寺領を寄進して、黙宗を請じたのですが、黙宗は、文叔を開山に勧請し、自らは二世になったのです。
さてこのときの龍泰寺再興が『井伊家伝記』」のいう井伊直盛寄進状のように、井を中心に東西南北の境界を定めた地であったとすると、八幡宮は既に殿村(現在地)に移遷されていた可能性が高いでしょう。その正確な時期はわかりません。このことについては、黙宗和尚伝の項で述べます。
(ロ)八幡宮と「井」の祭祀
八幡宮の性格のひとつに脇田晴子氏は、新羅侵攻の神功皇后伝説が、蒙古襲来以後『八幡愚童神』などにより、国粋主義的風潮の中で注目され、お産を抑え渡韓し、帰国後応神天皇出産という伝説にしたがって産神としても脚光を浴び、各在地にある名もない産神が神功皇后という皇室祖先神と習合するという現象が顕著になった、と述べています。
これは井伊八幡宮にも言えることだと思います。南北朝ころには確実に、井伊氏の氏神になっていたと考えられますが、室町時代中期ころまでは、武神であるとともに産神信仰の神でもあったわけです。「井」の祭祀は、正月修正会の香水=若水を提供する井戸であり、その後の粥占神事の聖水でもあったのですが、「井」そのものは祭祀の対象ではありませんでした。『井伊家伝記』は「龍潭寺中自浄院と申は往古元祖共保公出誕の節生湯を御掛候古跡霊地なり。右自浄院往古は地蔵寺と申候。地蔵寺を改て自浄院とは申なり」とあり、「地蔵寺」が「自浄院」の前身であると述べています。しかしそのすぐあとに、「神宮寺八幡宮御輿は往古龍潭寺より造立、右棟札にも龍潭寺中地蔵院と有之」とあるのです。しかも今の御輿は私(祖山和尚)が中興したものだとも言っています。八幡宮御輿は、これ以前の寛永十六年(1639)八月十五日新造の記録があります。これは龍潭寺歴代では昊天和尚代ですので、もう何十年かあと、祖山和尚が中興したわけです。すなわち、永禄三年龍泰寺が「龍潭寺」に改名以後にも「地蔵寺」は存在したわけです。
ですから、「地蔵寺」が「自浄院」に変わったというのは信じられません。龍泰寺時代には直平から井料寄進の際に、井伊祖共保出誕の井としたため、共保の霊の鎮魂を義務付けられたのは「龍泰寺」でした。それまでは特に、井に関係する祭事の記録はなく、井料寄進により祭事をしなければならなくなった。そこで龍泰寺内にとくに井を管掌する小院が必要になったのです。それでもともと八幡宮の御手洗の井の前にあつた「地蔵寺」(堂)を龍泰寺子院とした。地蔵はあの世とこの世を結ぶ仏で、「井」もまたあの世とこの世の通路です。ところが龍泰寺が、永禄三年、火災により延焼し、「直盛菩提」のために、新地(現在地)に建立されました。そのため、改名した龍潭寺にとっては、行輝寂明菩提を弔うことは二次的なものになり、また同時に八幡宮を「殿村の薬師山」(現在地)に移し、その跡地に新しい寺、龍潭寺を建てたため、「八幡宮御手洗の井」はその機能を失ったわけです。そもそも「八幡宮御手洗の井」から始祖共保が出誕したとすれば、それは八幡宮の祭神による奇瑞であるべきです。ところが、その八幡宮が移され、新たに龍潭寺が建てられたため、永録五年(1562)以前に、新たに龍潭寺内の「自清院」が「井」の管掌を引き継いだのです。「自浄院」ではありません。
永禄十一年(1568)、德川家康は井伊谷に兵を進め井伊城を陥落させます。さらに元亀四年(1573)には井伊谷は德川・武田氏の戦場と化します。そこで八幡宮御輿は、天正年間以降、多分家康が龍潭寺領を安堵した天正十四年(1586)ころより後だと思われます。そうなると、「次郎法師寄進状」の永禄八年から約二十年後には以前「地蔵寺」が存在していたことになります。しかし天正十七年(1589)「龍潭寺検地帳」では、たんに「地蔵前」であり、「地蔵寺」はありません。また「正保四年丁亥(1647)十一月廿一日に長田井の元に井伊殿の社を初て立申候」「則棟札に書のせ申し候。此節通り道無之に付て田中より本道のおもてへほそ道を付申し候」とあり、また延宝八年(1680)徹叟和尚の「由緒」中にある「年中行事次第」にも、特に「井」について祭事はありません。「誕生の井」そのものは、長い間、せいぜい正月の若水くらいにしか用がなかったのでしょう。この「井」が現在のように体裁が整う始めは、江戸時代貞享五年(1688)彦根藩主井伊直興の寄進により修理したからです。それ以降何度か修理していて、今の形になったのです。明治の公図に「井」を中心に囲む四方を「地蔵寺」となったのは、この地に地藏を祀っていたからでしょう。
ここまでを整理すると、龍潭寺と地蔵院(堂)は同じ時期に存在していたのでがあり、後者は前者の一子院であったわけです。地蔵寺が自浄院(自清院)になったという言葉の裏には、両寺が同じ性格の、すなわち「井」を管掌していたという認識が隠されています。ところで「井」の管掌は、直平による龍泰寺への井料寄進以降、永禄八年(一五六五)次郎法師の南渓和尚宛寄進状まで、確かなことはわかりません。この間、井伊直盛による寄進がありますが、おそらく龍泰寺宛寄進で、寄進の対象は次の今川氏真と同じだと思いますが、氏真は、亡き直盛の菩提を弔うために、新地に寺を建立し、寺名を改め、龍潭寺宛寄進状として発給されますが、これまで直平以外に「井」について述べた文書はありません。ところが、五年後の「次郎法師寄進状」には、直盛菩提所としての龍潭寺に触れ、そこに当寺領の内に、「自清院領」として「為行輝(共保)菩提所、西月(直平)寄進之上者云々」とあるので、先の直盛・氏真寄進状の「諸末寺」に、「自清院」が含まれていたと考えることができます。「清」の音は「セイ・ショウ」、つまり文字通り「清音」です。「浄」の字は意味は同じで、漢音では「セイ」と濁らないのですが、仏教で通常使用する呉音では「ジョウ」と濁ります。ですから、「清」と「浄」とは音が違うのです。これは発給した次郎法師も龍潭寺と関係深い人物であり、受給者もその対象の名称を誤ることはないでしょうから、「自清院」であって、決して「自浄院」ではなかったのです。すなわち次郎法師の時代は、「自清院」が「井」を管掌していたのですが、他方、先に見たように、龍潭寺改名後にも「地蔵寺」もあったわけです。寺伝からすれば、「地蔵寺」が「自浄院」に変わったとするので、これは実際には、「地蔵寺」が「自清院」に変わったのでしょう。あるいは、地蔵寺が何らかの理由で退転して、自清院が地蔵寺を受け継いだものでしょう。
「自浄庵」は、寺の名称からすると、至徳元年(1384)から明徳元年(1390)閏三月の間に、おそらく井伊氏一族かその庶流に関わる、円通寺僧某の母自浄庵主松岩大姉の初七日を修している文書に名が上がります。この「自浄庵」は尼寺で、円通寺とともに、創建年代は不詳ですが、無文禅師の奥山来住後は、ともども方広寺派に変わったと考えられます。この「自浄庵」と龍潭寺内自浄庵との関係は、ちょっとわからないのですが、無関係とはいえません。円通寺は、宗良親王念持仏と伝える観音菩薩を本尊とする寺で、最初は井伊道政屋敷跡に建てられたと伝えます。天文十三年(1544)井伊直満・直義両人が、駿府で今川義元に誅殺されたあと、しばらくして直満の屋敷に移ったといいます。たぶん現在の晋行寺のところだと思いますが、移転以前の場所は不明です。松岩大姉の「自浄庵」がどうなったかは不明です。
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