ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

春日部八幡神社・

2017-11-16 12:10:15 | 神社・仏閣

春日部八幡神社・

 

境内のやけにでかい燈明の台座に、「新方鎮守」の刻印がある。

・・・ということを、ここの地名かと確認すれば、幾つかの名残跡を見出すことができる。近在に「新方袋」と「新方川」である。「新方」は「にいがた」と読むらしい。かっては、ここいらの広域の地名だったかもしれないが、地名の変遷(合併・併合)で歴史から消えた地名なのかもしれない。調べてみると・---鎌倉期に「新方庄」の荘園名を古書に見つけた。


春日部には、かって「利根川」が流れていた。また利根川支流の「庄内古川」も流れていた。川筋が複数化する戯れは、関東平野と洪水の歴史の業である。「庄内古川」は、さらに以前は「渡良瀬川」下流部の時もあり「太日川」と四ばれ呼ばれたときもあった。故に、荒川の歴史とともに、この関東平野の、川筋の複数化のことを、かっては「乱流」と呼んでいた。また、川の名が、上流と下流、もしくは上流と中流と下流で名前を変える例は昔も今も幾多の例を持つ。大河では「千曲川」と「信濃川」、、武蔵野では「名栗川」と「入間川」の他、「渡良瀬川」と「太日川」や「荒川」と「隅田川」もその例なのであろう。この利根川跡を現在「大落古利根川」、庄内古川を「中川」と呼ぶ。



この「乱流」の作り出す広大な氾濫原は、川筋としては珍しく「砂丘」を作り出した。「浜川戸砂丘」のことである。当然ながら、遮るものがないゆえに風が強いのである。風が強いため、風が砂を巻き上げ集積し「砂丘」も作ったが、後には「凧あげ」も盛んにしていった。砂地の地質は、桐の育成の敵地であったのかもしれない。かって桐の美林があり、東照宮造営の職人たちが移り住み、桐ダンスの産地にもなった。
春日部の地名を辿ると、建武のころ、南朝・新田氏の配下に、地頭・春日部氏の名前を見ることができる。
八幡宮の神社自体は、この春日部氏が鎌倉の八幡宮から勧請した履歴があるので、それ以降ということになるのだろう。文字としては、春日部氏ではなく「粕壁」であった可能性もある。歴史の時系列で整理すれば、「新方」のほうがもともとの名前であったようだ。


春日部八幡神社  春日部市粕壁5597



旧・奥社

合祀された神社など・・

色ずく銀杏 ・秋たけなわ・


都鳥の碑・・こんなものが・・

 

コメント
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