聖書のことばから  デボーション

聖書のことばから気づかされたことをつづっています。

礼拝メッセージ「弱いときに発揮されるキリストの力」

2024-07-13 10:32:53 | 日記

聖書箇所 コリント信徒への手紙Ⅱ12章9-10節

  この世の中は強いこと、健康であることに価値があり 弱いこと、病気であることは良くないという思考がまかり通っています。また、病の癒しや困難な状況の除去を祈ってもなかなか聞かれなくて、落胆することもあるでしょう。本日の箇所でパウロは、「弱いときにこそ強い」(10節)となぜ言えたのでしょうか。そして、現代に生きる私たちも同様に、弱いときに強いということをどのように体験し、神様の恵みに感謝できるのかを、聖書から示されたことをわかちあいたいと思います。
 
  まず、このコリントの信徒ヘの手紙2 が書かれた背景についてご説明しますと、パウロは、伝道旅行を通してコリントにキリストの教会が建てあがりました。しかし、パウロが他の町へ移動した後、その教会に、おそらくエルサレムから送られてきた人びとが、パウロが使徒であることを否定し、パウロを誹謗中傷し、代わりに、自分たちはエルサレムからから推薦状を持ってきた、正統な使徒であると誇っているということが記されています。それを真に受けてしまった信徒たちが教会の中にいたので、パウロは彼が使徒であることを説明するだけでなく、コリント教会へのキリストの愛を示すために様々のことをコリントの教会に書き記しています。今日の箇所はパウロが主から示された二つの個人的経験を記しています。
 
 パウロは、第3の天まで引き上げられるという経験をしたことを記しています。自分のことであっても、「わたし」(一人称)で記さず、3人称で書いていますが、よく読めばパウロのことだとわかります。そのような、誇ろうと思えば誇れた霊的なすばらしい体験にも関わらず、彼は14年間黙っていました。「わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。 」(12:1)と誇ること自体が愚かだと承知しながら、パウロは使徒であるということを説明するためにあえて、主が見せて下さったこと、啓示して下さったことを、この機会に話しているのだと思います。
 
 次の体験は、パウロが取り除いてほしい「とげ」のことについてです。そのとげとは具体的に何かと記されていませんが、おそらく身体的な病気や伝道をする上での障害ではないかと言われます。それを「取り除いて下さい」と神様に3度祈りました。しかしその答えは、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(9節)でした。この答えを受けて、パウロはとげがあるままの弱い状態だからこそ、キリストの力が彼のうちに宿って下さる、だから弱さを誇りましょうと、現代に生きる私たちをも励ましています。そのとげは、第三の天までに引き上げられたという経験をしたパウロを思い上がらせないように与えられたものでもあると言っています。
 
 この祈りの答えを通して、神様はパウロに「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」という恵みの約束を与えました。パウロはどんな状況においても、キリストの力が発揮されるという経験を幾度となく彼の生涯してきたことでしょう。ですから10節に記されるよう「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。 」ということが出来たのだと思います。神様の約束は私たちに信仰を生み、信仰は希望を強めます。神様は私たちの「困難を取り除いてください」という祈りに対して、困難を取り除かれない場合があります。代わりに困難に神様の恵みを加えて困難の意味を変えることがあります。
 
 個人的な証しですが、私は42歳の時に胃がんになりました。手術で胃をほとんど摘出、最悪の場合は全部を摘出することもありますと説明を受けました。私は「御心ならば癌を消してください。たとえそうでなくとも手術がうまくいくようお任せします」と祈りました。結果、直前の検査ではがんは消えていませんが、私には平安が与えられ、恐れず開腹手術を受けることができました。その後が、ある意味試練の時でした。術後に後遺症に悩まされ、仕事を休職して一人で家に療養していた時にうつ的にもなり、世の中からも教会からも取り残されたように感じ、せっかく神様に助けて頂いた命を感謝する思いが削られるという、身体的にも信仰的にも試練の時期でした。この辛い、不信仰の状態、弱い私に神様は恵を加えてくださり、困難の意味を変えてくださいました。つまり、この後、仕事を辞めて、療養目的で両親が当時仕えていたアメリカの日本人教会へ行くために、移住する道が開かれたのです。そして、両親の伝道を手伝っているうちに、伝道者への召命が与えられはじめました。私の場合、癌をなくしてくださいという祈りは聴かれませんでしたが、それは神様の恵みがそんな弱い私に注がれ、アメリカで日本人向けに信徒伝道をしていた時、神様の力が発揮されて求道者や友人たちに聖書の学びの家庭集会を開くことができたのは驚きです。もしこの闘病の時期がなかったら、アメリカにも行くこともなく、献身することもなかったかもしれません。
 
 実は、主イエス様ご自身が、弱い時にこそ強いということを、身をもって示された方でした。コリント信徒への手紙Ⅱ 13:4に
 「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。」 
 
 イエス様は社会的に疎外されていた人々、弱い人々に寄り添われました。屠り場にひかれる小羊のように、十字架刑に引き渡され、死なれました。しかし、このことは私たちの罪が赦されるため、また神の力により復活されて栄光を受けられ、そのことを信じる私たちも、イエス様とともに神様の力によって生きるようにして頂くためでした。
 
  また、神様はあらゆる恵みの源であり、主イエス・キリストの十字架を通して、私たちを救い、永遠の栄光に招いてくださっているとの御言葉がペトロの手紙1 5:8-10に記されています。恵みの神様が苦しんでいる私たちを完全なものとし、強め、力づけ、揺らぐことないように、神様がして下さるとの約束が私たちにも与えられていることは大きな励ましです。また パウロは使徒20:32にて、エフェソの教会の長老たちに伝えているように、御言葉が神様の恵みであり、そしてこの御言葉が私たちを作り上げ、キリストを信じて聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせると記しています。
 
  この世に生きている限りおこりうる悲しみ、困難を通して、自分の弱さを認め、神様に委ねた時、私たちの力ではなく、内に住まわれるキリストの力が発揮されるとの約束が私たちに与えられています。この神様の恵のみことばをいつも心に蓄え、何度も読んで味わい、日々様々なことがおこっても、弱さのなかに働かれる主の力が発揮されることを信じましょう。神様によって万事が益になるように共に働くという、ローマ8:28にしるされている希望を持ちつつ、キリストによる救いの喜びを忘れず、日々祈って聖霊の導きに従って歩んでいきましょう。
 
   (引用 新共同訳聖書)
 


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