私ももうすぐ60になるようないい歳なので、自分には才能があるとかないとかで気持ちがぐらつくことは、もうあまりないが、最近ある新聞のコラムを見て、改めて才能の在処というものを考えてみた。
それは、朝日新聞の3/3夕刊に載っていた「1語一会」である。これは毎回1人ずつ著名人が人生の転機になった言葉を紹介する連載コラムで、この回は日本語学者の金田一秀穂が卒論の指導教授から言われた言葉について述べていた。
それによると、金田一は大学4年の時、卒論の指導教授だった小木貞孝にこう問うた。「研究者に向いているでしょうか。才能あるでしょうか」。それに対して小木は「わからない……」と言ってから、「そもそもそういう問題ではないのだ」と前置きして、こう述べたという。
「才能というのはね、能力のことじゃないんだ。どうしてもやめられない性格のことなんだよ」
この小木の言葉は、まさに才能なるものの本質を言い表していると思う。才能というと、一般的には「何かを人並み外れたレベルでできる(ある種、天賦の)力」のように考えてしまいがちだが、身体的な器用不器用、物覚えの善し悪し、要領の善し悪しといった差はあるものの、所詮は同じ人間のやることだから、それ自体は本質的な差異ではない。では、本質的な差異をもたらすものは?といえば、それは多分、どれだけ長く、集中的に、それに取り組んだか、である。
こういうと、それはマルコム・グラッドウェルが『天才! 成功する人々の法則』(注)という本の中で述べている「1万時間の集中的訓練」そのものになってしまうが、私はグラッドウェルが言うような「1万時間の集中的訓練を経れば、“誰でも”その道の天才と呼ばれるレベルに到達できる」というのは嘘だと思っている。なぜなら「1万時間の集中的訓練」など、誰でも思いつきでできるようなものではないからだ(そのことは過去に「1万時間」という記事でも書いたが、その時とはやや考え方が変わった)。
では「1万時間の集中的訓練」を達成するのに必要なものは?と考えてみれば、それは「やる気」だとか「覚悟」とかではなく、「(そのことを)やめられない性格」なのだというのは腑に落ちる。そして、それは必ずしも「そのことが好き」かどうかは関係ない(「好きこそものの上手なれ」ということはあるが、世の中には口では「もういやだ、やめたい」などと言いながら、そのことをずっと続けている人もいる)。だからそれは「何かに一心に打ち込む」といった格好のいいものではないし、もちろん「それがカネになるから」といった理由でもない。ただ「やめられない(あるいは、やめようとしない)」ということなのだ。
結局、その人に何か才能と呼べるものがあるとしたら、それは「好きなこと(もっと正確には、本人が好きだと思っていること)」よりも「やめられないこと」の中にあるのだと思う。
(注)この日本語版の翻訳を手がけた勝間和代は、原題の『Outliers』を「天才」と訳したことを自画自賛しているが、そもそもこの本は「普通いわれるような意味の天才など存在しない」ということがテーマなので、それに『天才!』などというタイトルをつけることは本来あり得ない。(自分で訳しておいて中身を理解してないのか? それとも人に訳させたものを自分の名前で出したのか?) outlierとは元々は「何かから遠く隔たった人」という意味なので、例えば「卓越者」などといった訳語が適当だろう。なお、このグラッドウェルの説には数多くの反論もあることを付け加えておく。
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