北野武監督が、高い評価を受けた『座頭市』の次回作として撮った『TAKESHIS'』は、「"たけし"が"たけし"を演じる。"たけし"が"たけし"に出会う」というキャッチ・コピーで公開されたが、「まるで大学の映画研究会が撮るようなレベルの映画」などと酷評され、半分黙殺されたような形で終わった。しかし、この映画をDVDで初めて観た私は、この作品に奇妙な「死の影」を感じた。そして思った。北野武、そしてビートたけしはドッペルゲンガーを見てしまったのではないか、と。
北野武監督の映画では、必ず登場人物の誰かが死ぬ。そういう意味では、北野作品にはいつも「死のにおい」があるのだが、『TAKESHIS'』はそういった「ストーリーの中での死」とは違う、現実の北野武が自らの死を予見したかのような「死の影」がちらついている。
『TAKESHIS'』は、最初の5分を見ればすぐにわかることだが、この映画の元ネタはエイドリアン・ライン監督の『ジェイコブス・ラダー』だ。『ジェイコブス・ラダー』は、一言で言えば「人はどのように死んでいくのか」を描いた作品である。ここにまず、死のメタファー(隠喩)が一つある。
ところで、『TAKESHIS'』の元ネタが『ジェイコブス・ラダー』であることは(私が調べた限り)不思議なことに誰も指摘していないが、間違いない。その理由は映画の冒頭(とラスト)の類似性だけではない。『ジェイコブス・ラダー』には、主人公がストレッチャーに乗せられて、バラバラになった人間の体が散乱する廊下をカイロプラクティックの治療室に運ばれていく(竹中直人を嫉妬させた、この映画の白眉とも言える)シーンがあるのだが、『TAKESHIS'』には、それをギャグにしたシーンが出てくるのである。
そして、この映画では、売れっ子のタレント、ビートたけし(もちろん、本人が演じている)が、俳優を目指しながら果たせぬまま、しがないコンビニの店員をしている北野(これも、ビートたけし本人が演じている)と出会う。たけし以外の出演者も、ビートたけし(映画の中の)側の役と、北野側の役の2役を演じ、ビートたけしの側の視点と北野の側の視点が脈絡なく切り替わることで、観客は今スクリーンに映っているのがどちらの側の物語なのかわからなくなっていく--というのが『TAKESHI'S』の「表向きの」仕掛けだ。それが批評家には「大人げない」と写ったのかもしれない。しかし、そこにはもっと深い意味があったと、私には思える。
たけしが出会った北野こそ、ビートたけし、そして北野武のドッペルゲンガー(分身)だったのではないか。古今東西、ドッペルゲンガーを見ることは死の前兆とされている。さまざまな人たちが、死の少し前に自分のドッペルゲンガーを見たという記録が残されている。ここにまた、死のメタファーを見ることができる。
そして『TAKESHIS'』には、ビートたけし主演の映画『灼熱』(もちろん、現実にそんな映画があるわけではない)のクライマックス・シーンが、劇中劇として挿入されているのだが、これが『ソナチネ』のセルフ・パロディになっている。それだけでなく、さまざまなシーンに『3-4×10月』『Brother』など、過去の北野作品がパロディとして登場してくる。これもまた死のメタファーなのだが、これについては、少し詳しく説明しなければならない。
深作欣二が監督を降板したことで、主演だけでなく監督まですることになった『その男、凶暴につき』から、映画監督・北野武は始まった。そしてその作品は、全くBGMを使わないで作った『3-4×10月』、逆に、口のきけない二人の若者を主人公にすることで、セリフに頼らず絵と音楽だけで作品世界を作り上げた『あの夏、いちばん静かな海。』を経て、人間の心の奥底にある「死への渇望」を、生=静、死=動(生=動、死=静ではなく)という形で鮮烈に描き出した『ソナチネ』へとつながっていく。しかし、作品の質の高さとは裏腹に、この頃の北野映画は「お笑い芸人の余芸」というふうに見られていた(私が『ソナチネ』を見に行った時は、映画館には私のほか3人の客しかいなかったものだ)。
その後、『みんなーやってるかー』という怪作(ちなみにこれは、第1回ビートたけし監督作品である)を撮ったり、スクーター事故を起こして死にかけたり、といったことを経て、『HANA-BI』がヴェネチア国際映画祭グランプリを受賞。『Brother』ではハリウッドでの監督デビューを果たし、「お笑い芸人・ビートたけし」は「世界の巨匠・北野武」になっていくのだが…
世間での評価が高まる一方で、北野作品は過去の作品の焼き直しが目立って多くなっていく。実は、『HANA-BI』と『Brother』は『ソナチネ』のセルフ・リメークである、と私は見ている。もちろん、同じ監督が撮っているのだから、作品の肌合いが似てきてしまうのは避けられないが、そんなレベルを超えて、例えば『ソナチネ』と『HANA-BI』は、ストーリーや設定などを全く変えてはいるものの、私には同じ作品としか感じられない(こういうことも、どこからも指摘されていないのが不思議でならない)。
そして、世間での評価とは別に、北野武もある時、気づいたのだろう--いや、もしかしたら、ずっと気づいていたのかもしれない。自分は『ソナチネ』で終わる映画監督だったことに。だからこそ『TAKESHIS'』では、自分の過去の映画をセルフ・リメークではなく、セルフ・パロディとして埋め込み、映画監督として北野武は終わったのだということ--映画監督・北野武の死--を示そうとしたのだ。誰に対して? もちろん、自分自身に対して。それはタイトルを見ればわかる。『TAKESHIS'』--この映画は、北野武が自分自身に送った「死の宣告」なのである。北野武、そしてビートたけしは、ドッペルゲンガーを見てしまったのだ。
どんな神話でも、英雄が真に英雄となるには、一度死んで甦らなければならない。この先、北野監督が映画を撮るのかどうかわからないが、お笑い芸人から映画監督になったように、全く予想もしない変貌を遂げるのではないかと、私は密かに期待しているところだ。
北野武監督の映画では、必ず登場人物の誰かが死ぬ。そういう意味では、北野作品にはいつも「死のにおい」があるのだが、『TAKESHIS'』はそういった「ストーリーの中での死」とは違う、現実の北野武が自らの死を予見したかのような「死の影」がちらついている。
『TAKESHIS'』は、最初の5分を見ればすぐにわかることだが、この映画の元ネタはエイドリアン・ライン監督の『ジェイコブス・ラダー』だ。『ジェイコブス・ラダー』は、一言で言えば「人はどのように死んでいくのか」を描いた作品である。ここにまず、死のメタファー(隠喩)が一つある。
ところで、『TAKESHIS'』の元ネタが『ジェイコブス・ラダー』であることは(私が調べた限り)不思議なことに誰も指摘していないが、間違いない。その理由は映画の冒頭(とラスト)の類似性だけではない。『ジェイコブス・ラダー』には、主人公がストレッチャーに乗せられて、バラバラになった人間の体が散乱する廊下をカイロプラクティックの治療室に運ばれていく(竹中直人を嫉妬させた、この映画の白眉とも言える)シーンがあるのだが、『TAKESHIS'』には、それをギャグにしたシーンが出てくるのである。
そして、この映画では、売れっ子のタレント、ビートたけし(もちろん、本人が演じている)が、俳優を目指しながら果たせぬまま、しがないコンビニの店員をしている北野(これも、ビートたけし本人が演じている)と出会う。たけし以外の出演者も、ビートたけし(映画の中の)側の役と、北野側の役の2役を演じ、ビートたけしの側の視点と北野の側の視点が脈絡なく切り替わることで、観客は今スクリーンに映っているのがどちらの側の物語なのかわからなくなっていく--というのが『TAKESHI'S』の「表向きの」仕掛けだ。それが批評家には「大人げない」と写ったのかもしれない。しかし、そこにはもっと深い意味があったと、私には思える。
たけしが出会った北野こそ、ビートたけし、そして北野武のドッペルゲンガー(分身)だったのではないか。古今東西、ドッペルゲンガーを見ることは死の前兆とされている。さまざまな人たちが、死の少し前に自分のドッペルゲンガーを見たという記録が残されている。ここにまた、死のメタファーを見ることができる。
そして『TAKESHIS'』には、ビートたけし主演の映画『灼熱』(もちろん、現実にそんな映画があるわけではない)のクライマックス・シーンが、劇中劇として挿入されているのだが、これが『ソナチネ』のセルフ・パロディになっている。それだけでなく、さまざまなシーンに『3-4×10月』『Brother』など、過去の北野作品がパロディとして登場してくる。これもまた死のメタファーなのだが、これについては、少し詳しく説明しなければならない。
深作欣二が監督を降板したことで、主演だけでなく監督まですることになった『その男、凶暴につき』から、映画監督・北野武は始まった。そしてその作品は、全くBGMを使わないで作った『3-4×10月』、逆に、口のきけない二人の若者を主人公にすることで、セリフに頼らず絵と音楽だけで作品世界を作り上げた『あの夏、いちばん静かな海。』を経て、人間の心の奥底にある「死への渇望」を、生=静、死=動(生=動、死=静ではなく)という形で鮮烈に描き出した『ソナチネ』へとつながっていく。しかし、作品の質の高さとは裏腹に、この頃の北野映画は「お笑い芸人の余芸」というふうに見られていた(私が『ソナチネ』を見に行った時は、映画館には私のほか3人の客しかいなかったものだ)。
その後、『みんなーやってるかー』という怪作(ちなみにこれは、第1回ビートたけし監督作品である)を撮ったり、スクーター事故を起こして死にかけたり、といったことを経て、『HANA-BI』がヴェネチア国際映画祭グランプリを受賞。『Brother』ではハリウッドでの監督デビューを果たし、「お笑い芸人・ビートたけし」は「世界の巨匠・北野武」になっていくのだが…
世間での評価が高まる一方で、北野作品は過去の作品の焼き直しが目立って多くなっていく。実は、『HANA-BI』と『Brother』は『ソナチネ』のセルフ・リメークである、と私は見ている。もちろん、同じ監督が撮っているのだから、作品の肌合いが似てきてしまうのは避けられないが、そんなレベルを超えて、例えば『ソナチネ』と『HANA-BI』は、ストーリーや設定などを全く変えてはいるものの、私には同じ作品としか感じられない(こういうことも、どこからも指摘されていないのが不思議でならない)。
そして、世間での評価とは別に、北野武もある時、気づいたのだろう--いや、もしかしたら、ずっと気づいていたのかもしれない。自分は『ソナチネ』で終わる映画監督だったことに。だからこそ『TAKESHIS'』では、自分の過去の映画をセルフ・リメークではなく、セルフ・パロディとして埋め込み、映画監督として北野武は終わったのだということ--映画監督・北野武の死--を示そうとしたのだ。誰に対して? もちろん、自分自身に対して。それはタイトルを見ればわかる。『TAKESHIS'』--この映画は、北野武が自分自身に送った「死の宣告」なのである。北野武、そしてビートたけしは、ドッペルゲンガーを見てしまったのだ。
どんな神話でも、英雄が真に英雄となるには、一度死んで甦らなければならない。この先、北野監督が映画を撮るのかどうかわからないが、お笑い芸人から映画監督になったように、全く予想もしない変貌を遂げるのではないかと、私は密かに期待しているところだ。
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