スタニスワフ・レムの『ソラリス』を読んだ。これは飯田規和の訳で『ソラリスの陽のもとに』というタイトルで出されていたものの新訳版である。
今回の沼野充義訳の『ソラリス』と飯田訳の『ソラリスの陽のもとに』との違いについては沼野自身による解説に詳しいが、大きくは飯田訳が、レムの原作のロシア語訳版からの重訳だったのに対して、沼野訳はポーランド語の原作から直接訳したものであること。これによって、ロシア語訳される際に検閲で削られた部分の影響を受けない完全な形で、日本語で読めるようになった。
以下、映画『惑星ソラリス』のテーマとともに。
私は『ソラリスの陽のもとに』は読んでいないが、タルコフスキーの映画『惑星ソラリス』は観たことがある。ストーリーはほとんど覚えていないが、(タルコフスキーの映画は常にそうだが)とにかく眠くて、半分夢うつつの状態で観たことだけはよく覚えている(その後、ソダーバーグが映画『ソラリス』を撮っているが、こちらの方は未見)。
ただ、『惑星ソラリス』とレムの原作では、かなり印象が異なる。沼野は解説でタルコフスキーの映画について「この作品に道徳的な苦悩と懐かしいものへの回帰を読み取った」「モラルと郷愁の物語」と述べ、それに対してレムの原作は「人間以外の理性との接触の物語」で「(意思を持った存在としてのソラリスの)海の強烈な他者性」を特徴としていると書いているが、この指摘は非常に的を射ていると思う。
『ソラリス』は、いわゆる異星の存在とのファースト・コンタクトを描いた物語だ。異星人とのファースト・コンタクトというと、つい映画『未知との遭遇』や『E.T.』あるいは『エイリアン』的なものを思い浮かべてしまうが、多分それは幻想に過ぎない。『ソラリス』では、ソラリスの海は意思あるいは意識を持っている、とされているが、それがどのような意味で意思あるいは意識と言えるのかすら、人は掴むことができない。これは「相手が何を考えているのかわからない」というレベルの問題ではない。
例えば、普通は石や土が意識を持つとか何かを思考しているとは考えないが、それは石や土が「人間が考える意味での」意識や思考を持たないというだけであって、本当に石や土が意識や思考を持たないのかは我々にはわからない。逆に、石や土からは人間が意識や思考を持っているようには見えないだろう。つまりそれは、人間が石や土が定義する意味での意識や思考を持っていない、ということだ。
そういう意味では、この『ソラリス』は過去から現在まで「動物は本当に意思や思考を持つのか」ということを問い続けてきた西洋的な知への、レムからの1つの回答であるとも考えられる。
と同時に、人の思考・意識を読み取り、クリス・ケルヴィンに対しては死んだ妻、ハリーを現出させてしまうソラリスの海は、ネットとクラウドによる来たるべきバーチャル・リアリティの世界を予見したもののようにも私には感じられた。
さて、ネットとクラウドは、ソラリスの海のようにそれ自体が「人間が考える意味を越えた」意識や思考を持つ何かになっていくのだろうか?
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