「カバラと『生命の木』」の第35回。今は第10セフィラ、マルクトについて述べている。
高次の世界の思考では明確に捉えられないものを最終的に明確化、具現化するのが、マルクトの持つ形を与え物質化する機能である。他の全てのセフィロトから流出したものは、マルクトに到達すると光り輝き、眼に見えるものとなる。ゆえに、あらゆる魔術的ワークは完了するに際してマルクトを通過しなければならない。力が最終的に形となるのは、マルクトにおいてのみだからである。
あらゆる魔術的ワークは、次元を下ってその魔術師の力量の範囲内に力を及ぼすよう設定されている。多くの魔術師は主観的成果(例えば単なる高揚感)を得ることで満たされるが、中には心霊現象を引き起こそうとする者もいる。だが、次のことは意識されるべきである。どのようなワークも、それがマルクトの言葉で表現されなければ、生み出された力は適切に「接地(アース)」されず、物質界に作用することはない、ということは。
接地されなかった力は作用しないまま残る。そうした力が累積されると、結果として予期せぬ霊的な大変動や悪運の連鎖、異常な出来事などを生じることがある。魔術的儀式が時に変事を呼ぶことがあるのは、そのためである。つまり、そうしたことは魔術そのものの悪性によるものではなく、それを用いる魔術師自身の技術のなさ、更に言えば、マルクトの次元について十分理解していないことによる。
秘教学では生命だけが形を組織できるとされているので、それに従うなら、イエソドからマルクトへの移行は、生ける実体(すなわち生命)の媒介を通じてのみ可能となる。ただし、秘教学における生命の捉え方は我々が一般に持つ生命の概念とは異なる。秘教学では、適切な図案が刷り込まれた護符や精妙な結晶構造を持った物質(宝石や金属)なども生命力を持っていると考える。オカルティズムの実践にそれらが用いられるのは、そうした理由による。
けれども、霊的実践において最も重要な魔術的武器は魔術師自身であって、他の仕掛けは全てその目的のための手段に過ぎない。魔術師は自らを神と同じもの(すなわち生ける神の宮)と見なし、自らを顕現の通り道としてマルクトとイエソドの間に橋を架けるのである。
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