18世紀中頃のフランス。パリから少し外れた、とある街で、広場を人々が埋め尽くし、口々に怨嗟の声を上げながら、その時を待っていた。その人々の怒りと興奮に恐れをなした裁判所は大急ぎで、広場に集まった人々に向けて一人の男に対する判決を読み上げる。その男は全身の骨を打ち砕いた上で絞首刑に処する、と。上がる歓喜の声。そして獄につながれていた、その男は、刑を執行されるため鎖を解かれて民衆の前に引きづり出されようとしていた。その男の名は、ジャン=バチスト・グルヌイユという。
映画『パフューム ある人殺しの物語』は、こうして始まる。この映画は、多面体のようなさまざまな顔があり、一言で言い表すことができない。
この映画は、一人の人間の数奇な一生の記録である。
この映画は、圧倒的な才能を持った人間がなし得た奇跡を描いている。
この映画は、ある特異な連続殺人事件と、それにまつわる物語である。
この映画は、芸術と狂気を描いている。
この映画は、愛を求め続け、ついに究極の愛に到達した男の物語である。
この映画は、歪んだ『プロジェクトX』とも言うべき成功譚(サクセス・ストーリー)である。
原作となったのは、そのあまりにも衝撃的な内容で、哲学、犯罪学などにも大きな影響を与え、世界45カ国、累計1500万部にも及ぶヒットを記録した、パトリック・ジュースキントの同名の小説(日本語版は、『香水 ある人殺しの物語』(文春文庫刊))である。
ジャン-バチスタ・グルヌイユは18世紀初頭の悪臭渦巻くパリの魚市場で産み落とされ、パリの最下層に生きる身となるが、生まれながらにして異常嗅覚の持ち主で、ある人との出会い(と別れ)によって、自らの生涯を掛けた夢を見定める。その夢とは、「全てのものの香り(特に、人間の体臭)を永遠のものとして定着させること」。そして、自分の嗅覚というギフト(才能)により弟子入りを許された調香師のもとで、彼はもう一つの夢を得る。「究極の香水を作る」という夢を。
そして、自らの圧倒的な才能を武器に、この二つの夢を実現するグルヌイユの道行きが始まる。その途の果てに彼が到達したものは一体何だったのだろうか?
この『パフューム』を観ている途中、二つの物語が頭を離れなかった。
一つは、同時代のもう一人の天才の旅路を描いた『アマデウス』。『アマデウス』は、誰よりも神を尊び、神のために努力を続けて、宮廷楽師長にまで上り詰めたサリエリが、自分を遙かに凌ぐ音楽の才能を持った天才、アマデウス・モーツァルトと出会い、神を呪い、神に復讐する物語である。グルヌイユとモーツァルトを見る時、人は努力だけでは決して到達し得ないものがあることを思い知らされる。努力することを否定するわけではないが、努力では天才には勝てない。あるいは、努力だけでは越えることのできない力を持った者を天才と呼ぶのかもしれない。それは残酷なこの世の真実である。
そして、もう一つの物語が、真に迫った地獄の絵を描くために「生きた人間が焼き殺されるところを写生させてほしい」と願い出る絵師を描いた、芥川龍之介の『地獄変』である。一枚の絵のために人を焼き殺す──それは人として許されることではない。しかし、その絵が「傑作」と呼ばれて100年も1000年も生き続け、人々を魅了し感動を与え続けたとしたら、例えば人を一人焼き殺すことは果たして「悪」だろうか? それは許されない所行だろうか?
最下層から身を起こし、遙か高みまで上り詰めた(いや、正確には「上り詰められるところまで行った」と言うべきだろうか)グルヌイユの生き様は、そのおぞましい行為にも関わらず、限りなく透き通って、清々しくさえある。そう、彼は夢を追っていただけなのだ。ただ純粋に。
映画『パフューム ある人殺しの物語』は、こうして始まる。この映画は、多面体のようなさまざまな顔があり、一言で言い表すことができない。
この映画は、一人の人間の数奇な一生の記録である。
この映画は、圧倒的な才能を持った人間がなし得た奇跡を描いている。
この映画は、ある特異な連続殺人事件と、それにまつわる物語である。
この映画は、芸術と狂気を描いている。
この映画は、愛を求め続け、ついに究極の愛に到達した男の物語である。
この映画は、歪んだ『プロジェクトX』とも言うべき成功譚(サクセス・ストーリー)である。
原作となったのは、そのあまりにも衝撃的な内容で、哲学、犯罪学などにも大きな影響を与え、世界45カ国、累計1500万部にも及ぶヒットを記録した、パトリック・ジュースキントの同名の小説(日本語版は、『香水 ある人殺しの物語』(文春文庫刊))である。
ジャン-バチスタ・グルヌイユは18世紀初頭の悪臭渦巻くパリの魚市場で産み落とされ、パリの最下層に生きる身となるが、生まれながらにして異常嗅覚の持ち主で、ある人との出会い(と別れ)によって、自らの生涯を掛けた夢を見定める。その夢とは、「全てのものの香り(特に、人間の体臭)を永遠のものとして定着させること」。そして、自分の嗅覚というギフト(才能)により弟子入りを許された調香師のもとで、彼はもう一つの夢を得る。「究極の香水を作る」という夢を。
そして、自らの圧倒的な才能を武器に、この二つの夢を実現するグルヌイユの道行きが始まる。その途の果てに彼が到達したものは一体何だったのだろうか?
この『パフューム』を観ている途中、二つの物語が頭を離れなかった。
一つは、同時代のもう一人の天才の旅路を描いた『アマデウス』。『アマデウス』は、誰よりも神を尊び、神のために努力を続けて、宮廷楽師長にまで上り詰めたサリエリが、自分を遙かに凌ぐ音楽の才能を持った天才、アマデウス・モーツァルトと出会い、神を呪い、神に復讐する物語である。グルヌイユとモーツァルトを見る時、人は努力だけでは決して到達し得ないものがあることを思い知らされる。努力することを否定するわけではないが、努力では天才には勝てない。あるいは、努力だけでは越えることのできない力を持った者を天才と呼ぶのかもしれない。それは残酷なこの世の真実である。
そして、もう一つの物語が、真に迫った地獄の絵を描くために「生きた人間が焼き殺されるところを写生させてほしい」と願い出る絵師を描いた、芥川龍之介の『地獄変』である。一枚の絵のために人を焼き殺す──それは人として許されることではない。しかし、その絵が「傑作」と呼ばれて100年も1000年も生き続け、人々を魅了し感動を与え続けたとしたら、例えば人を一人焼き殺すことは果たして「悪」だろうか? それは許されない所行だろうか?
最下層から身を起こし、遙か高みまで上り詰めた(いや、正確には「上り詰められるところまで行った」と言うべきだろうか)グルヌイユの生き様は、そのおぞましい行為にも関わらず、限りなく透き通って、清々しくさえある。そう、彼は夢を追っていただけなのだ。ただ純粋に。
あの映画では、モーツアルトを心から愛していた人達だけが、彼の最期を見送っていたのが、とても印象に残っています。
その中にサリエリもいて、彼はモーツアルトを憎み、そして又、その才能を本当に愛していたという事が、とても苦しい作品でした。
私の「パフューム」を読んでくださってありがとうございました。