「カバラと『生命の木』」の第20回。
第6セフィラであるティファレト「美」の本質は、それが「生命の木」全体の均衡の中心にあることである。ティファレトのある「中央の柱」は常に意識に関係し、両側の2本の柱は異なる次元における力の異なる働き方に関わる。「中央の柱」のティファレトの一段上にはケテル、一段下にはイエソドがある。つまりティファレトはケテルにとっては子、イエソドにとっては王であることを意味するとともに、ティファレトはケテルとイエソドという2つの異なる意識が焦点を結ぶ、力の次元と形の次元との結節点にある、ということでもある。
ティファレトを中心とする6つのセフィロトはアダム・カドモン(元型的人間)とも呼ばれる。マルクトという形の王国の背後で物質の受容性を完全に支配しているのが、この6つのセフィロトであるからだ。ティファレトの中に見い出すことができるのは元型的観念に変容した元型的理念であり、それは「受肉の場」と呼ばれる。そして「神」=理念の受肉には犠牲的な死が必要となるので、ティファレトには「十字架の密儀」が割り当てられている。それは「犠牲になった神」である。
ティファレトの中では神は形の中に顕現する。子たるティファレトは父たるケテルを形として我々に示すのだ。そして形が安定するためには、形を組み立てる力と均衡状態に入っていなければならない。この命題を裏返してみると、形を構成する力は完全に均衡が取れた時、神は御自ら形の中に顕現する、ということになる。つまり条件が整えば、神は我々の中に顕現するのである。
ティファレトを中心とする6つのセフィロトが均衡に達し、ティファレトの子としての側面において形の中に顕現した受肉した神は、成長すると「救世主」となる。この目的のため、受肉した神々は犠牲に供され、人々のために死ぬ。そうして「王国」は均衡が保証され救われるのである。ティファレトが「キリスト中枢」とも呼ばれるのはそのためだ。
さて、ティファレトより前の各セフィラではマクロコスモス的な観点から考察し顕現する力のさまざまな元型が宇宙を構成する有り様を見てきたが、ティファレト以降はミクロコスモス的な視点に立って、元型的な力は形の中に閉じ込められ、それが意識の中に与える効果という観点から、各セフィラを意識の中にある諸要素として心理学的に把握していく。言い換えれば、我々はここから感覚の直接体験を通じてセフィラを把握していくことになる(ただしその感覚とは必ずしも肉体的次元を意味するものではない)。
ケテルは形而上的、イエソドは心霊的であるのに対して、ティファレトは本質的に神秘的である。神秘的とは一種の心の持ち方として理解される必要がある。その中で意識は象徴的、潜在意識的な表象ではなく情緒的反作用を通じて理解される。
「木」における「中央の柱」は意識の様態に関係していて、人間の意識はイエソドから「矢の小径」を通って上昇し、ティファレトで照明を受ける。照明とは心を感覚的経験より高い様態へと導くことである。照明によって心のギアが入れ替わるが、新しい意識形態が古いものと結びつきつつ一定の思考の中に翻訳されなければ、それは単なる目のくらむような光の煌めきでしかない。この翻訳が行われるところこそティファレトであり、ティファレトの中で意識を神秘的に体験することで、それを心霊的象徴へと変えることができるのである。
最後に、そうしたことについて述べた動画を付けておこう。
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