アングラ芝居では客席によく水や物が飛んでくる。そういう意味で客席も決して安全な場所ではないのだが、寺山修司が残した芝居『観客席』の危険さは度を超えている。
真っ暗闇の中で演じられる「見えない演劇」『盲人書簡』と合わせて、寺山の『観客席』は最も見たい舞台だった。その『観客席』を念願適って3/1に演劇実験室◎万有引力の舞台で見ることができた。
普通の芝居は開場して客が席についた後、開演から始まるのだが、万有引力の舞台は開場した瞬間から既に始まっている。そう、こんな具合に(これは野外劇『100年気球メトロポリス』のオープニングだが、通常の劇場で行われる公演でも中に入ると大体こんな感じ)。
しかし、『観客席』だけは開場した後も、開演のベルが鳴った後も、ベルが鳴るたびに次々に緞帳が上がるのだが、舞台の上には何もないし、誰もいない。それどころか、開演して3分も経っていないのに終演を知らせるように客席のライトが点くのだ。
そこに、開演に間に合わなかった観客と覚しき人が劇場内に入ってきて、1人の観客を指して抗議を始める。
「おい、そこは俺の席だ!」
いきなり抗議を受けた人は、あわててチケットを確かめて言い返す。
「いえ、私のチケットでは確かにこの席になってます。間違ってるのは、あなたでしょう」
…
そう、『観客席』とは観客席を舞台に演じられる芝居なのだ。観客席に座っている我々は、隣に座っている人が本当に観客なのか、観客を演じている俳優なのか、それとも隙あらば俳優に成り代わろうとしている観客なのか(笑)全くわからないまま、2時間近くを過ごすことになる。隣の席にいるのは見知らぬ他人であることは最初からわかっているつもりだったが、正体の全くわからない人が自分の隣に座っている、ということを改めて意識すると、心の中に一気に不安が押し寄せてくる。
観客席はもう、離れた舞台で演じられる芝居を鑑賞するだけの安全な場所ではない。開演した時から、いや本当は開場した瞬間から、我々は「観客」という役名を割り当てられた役者として、『観客席』という芝居の中に取り込まれているのだ。
テラヤマ演劇はもともと「虚構による現実の侵犯」をテーマに掲げてるが、そのテーマをもっともラディカルな形で体現したものが『観客席』という芝居である。そこでは通常の芝居にある「見る-見られる」という関係性を解体し、観客そのものを芝居の中に取り込むことによって、虚構と現実の境目を事実上なくしてしまう。
唐十郎(から じゅうろう)のテント芝居は、最後に舞台奥が開いて舞台と外の風景(つまり虚構と現実)とが一連なりのものになって終わるが、寺山の『観客席』は最初から現実とも虚構ともつかない得体の知れない「何か」として、そこにあるのだ。そこではもう、我々は安全な位置にいて単なる「見る」だけの存在ではあり得ない。
だが、考えてみれば「戦争ができる国」を目指して突っ走る内閣を50%という高い支持率で支え続ける我々には、もう安全な観客席などないのかもしれない。
我々がいるのは観客席ではなく『観客席』だ。
今回の万有引力の公演が、そんな時代の趨勢とシンクロしたもの「でない」ことを祈りたい。
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