これまでもいろいろな形のシェイクスピア劇を観てきたが、ハッキリ言って面白いと思ったことはなかった。それが今回、いのうえひでのりが『リチャード3世』を日本の鎌倉時代初期に移し替えて制作した舞台『鉈切り丸』を観て、初めて掛け値なしにシェイクスピア劇は面白いと思った。
シェイクスピアの原作で主役となるリチャード3世は、『鉈切り丸』では源範頼(のりより)。この範頼については鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』でもわずかな記述しかない、謎の多い人物である。頼朝の異母弟で、木曾義仲討伐を指揮するなどの活躍をしたが、後に謀反を企てた疑いで誅殺されたとされる。
この舞台では範頼は、源義朝と遊女の間に生まれた子で、範頼自身が語るには「母親が急に産気づいて生まれたため、臍の緒を鉈で切ったことから幼名を鉈切り丸とつけた」という(実は後の方で母親から、彼も知らなかった幼名の本当の由来が語られるのだが)。
そして『吾妻鏡』では端整な顔立ちとされるが、舞台ではシェイクスピアの原作に従って、範頼は顔に醜いあざのある、びっこで瘻(せむし)の男として描かれる(なお、実在したリチャード3世も決してシェイクスピア劇に描かれたような障害を持った醜い人物ではなく、健常な好男子であったことが、彼の墓の発掘調査で明らかになってきている)。
その不自由な体ゆえに馬にも乗れない範頼は、しかし極めて知略に優れ、木曾義仲を殺して妻の巴御前を自分の女とし、頼朝が義経を討つように仕向け、その頼朝さえも毒殺して自らが征夷大将軍の位を得て、ついに鎌倉幕府の頂点に立つ。
その範頼を演じるのが森田剛だが、俳優としての森田剛は、そのたたずまいや声から、いつもどこか退廃的な虚無の匂いを感じる。その森田剛という肉体を依代に顕現する範頼は、だから単純な「外見の醜さをコンプレックスに持つ、強烈な上昇志向の男」にはなり得ない。
その森田剛の範頼=鉈切り丸は、あらゆる手段を使って全てを奪い取りながら、自分の手にしたものの永続性を全く信じていないように見える。彼は最初から自分が手にした何もかもを失うことを前提にしている、つまり本当のところ自分は何も得られないことがわかった上で動いているので、どんな悪を行うにも何のためらいもない。失うものが何もない人間は強い、と言われるが、範頼=鉈切り丸は得られるものが何もないがゆえに無敵なのだ。
その範頼の悪が疾走するさまが、『鉈切り丸』で描かれている。
オリジナルの『リチャード3世』では、クライマックスで全ての策略が露見し周りから攻められるリチャード3世が
「馬を、馬を! 王国でも何でもくれてやる!」
というセリフを言い放つ。このシーンが『リチャード3世』最大の見せ場なのだが、『鉈切り丸』にはこのセリフがない。別のセリフに差し替えられている。
そのセリフは、しかし森田剛演じる虚無を纏った範頼=鉈切り丸には、よりふさわしい。彼は何かを得たかったのではない。ただ、どこまでも高く飛んでいきたかったのだ。なぜなら彼自身が虚無という果てしのない深い穴だったがゆえに。
『鉈切り丸』、東京公演は11/30まで。カネと時間の都合がつくなら、絶対に観るべし。
制作発表会見の動画があったので、ちと長い(約12分)が添付する。
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