深く潜れ(Dive Deep)! キネシオロジー&クラニオセイクラル・ワーク(クラニオ)の蒼穹堂治療室

「ココロとカラダ」再生研究所、蒼穹堂治療室が送る、マニアックなまでに深く濃い、極私的治療論とお役立ち(?)情報の数々。

量子論が語るもの 第2部

2010-01-08 11:39:35 | 心身宇宙論
年末から年始にかけて、ちょっとばかり量子論を(それに相対論も)にわか勉強したので、それをネタにブログを書いているのだが、これがその第2部。純粋に前回からの続きなので、それを未読な方や読んだけど忘れてしまった方は、まず第1部からどうぞ。

前回は量子論では非常に有名な思考実験である「シュレディンガーの猫」のパラドクスまでを見てきた。今回はいよいよ「シュレディンガーの猫」のパラドクスを通じて物理学の量子論が情報理論と結びつき、量子情報理論へと進んでいく部分を見ていこう。引用は前回同様『宇宙を復号(デコード)する』(早川書房刊)から。

(前略)古典的な物体はけっして二つの状態のどちらとも判じがたい重ね合わせ状態にはなりえない──常にいずれかの状態、オンかオフ、左か右、1か0でなければならず、同時にどちらでもあるわけにはいかない──が、量子論的対象にはそれが可能だ。

(中略)

しかし、すでに見たように量子論は(それを言うなら相対性理論もだが)情報の移転を扱う理論だ。そうなると、何が起こっているかを記述するのに古典的な情報理論の1と0では不十分なら、科学者はどうして量子的対象に関する情報について語ることができるのだろうか。キュービットの出番はここだ。量子ビットは古典的なビットと違って、同時に二つ(あるいはもっと多く)の矛盾しあう値をとれる。同時に0でも1でもあることができる。シュレディンガーの子猫の生きてもいるし死んでもいる状態は古典的なビットでは記述できないが、キュービットでなら記述することができる。

(中略)

 実は量子論の不条理さ──原子、電子、光のありえないように見える振舞い──すべてに情報がかかわっている。情報がどのように保存され、どのようにある場所から別の場所に移り、どのように散逸するかだ。科学者が、こうした事柄を支配する法則をひとたび理解すれば、原子サイズ以下の世界がなぜ、巨視的世界とこんなに違う振舞い方をするのか、原子は一度に二ヵ所にあることができるのに、なぜネコは生と死の重ね合わせ状態で存在できないのかを理解することになるだろう。

(中略)

 測定を繰り返すと、核の崩壊を防ぐことができる。この効果は量子ゼノン効果と呼ばれ、閉じ込められたイオンの光子を用いて研究室で研究されてきた。そして理論家は、その逆も起こりうると示唆している。注意深く見守ることで、崩壊する原子を誘導することも可能かもしれないというのだ。量子ゼノン効果と反量子ゼノン効果から、測定という行為──情報の移転──が核の崩壊のような現実の物理現象を左右することがわかる。何らかの形で量子情報は、物質がどう振舞うかを支配する法則と結びついているのだ。

 実際、原子核崩壊という物理的現象を、完全に量子情報の言葉で言い表すことも可能だ。その場に観測をおこなう人間がいなくても、原子核の自発的分裂を情報転移と見ることができる。核は純粋な壊れていない状態から出発し、崩壊した状態と崩壊していない状態の重ね合わせ状態に入っていく。シュレディンガーの猫と同じく、ここでは同時に壊れていもいるし壊れていなくもある。それからあることが起こる。核について情報を集めているものがあるのではないか。何かが原子の状態を測定しているのだ。(中略)このように、原子核崩壊は情報移転プロセスと見なせるが、問題点が一つ残る。測定をおこなう「何か」だ。原子について情報を集め、それを取り巻く環境に広めるのは何なのか。

その何かとは自然である。自然そのものが絶えず測定をおこなっているのだ。そして、これこそシュレディンガーの猫のパラドクスを解く鍵なのである。

(中略)

 おおかたの通俗科学書は、ハイゼンベルクの不確定性原理を紹介するとき、測定という行為そのものが測定される系を「乱してしまう」というような言い方をする。(中略)しかし、そういう言い方はことの一面しか伝えていない。科学者が何かを測定していなくても不確定性原理は成り立つからだ。この原理は誰かが何かの情報を集めているかどうかにかかわらず、自然のあらゆる側面に当てはまる。大気のある状態から、もっと遠くはなれた真空でもそうである。

(中略)

 このように絶え間なく測定が行われるというのは、量子世界のルールから必然的に導き出される結論だ。また、ここにこそ、シュレディンガーの猫のパラドクスの秘密が隠されている。つまりここに、量子力学における主要な問題の一つ、すなわち微視的な対象はなぜ巨視的な対象と異なる振舞い方をするのか? という問題の答えがあるのだ。なぜ重ね合わせ状態で存在することが原子にはできて、ネコにはできないのか。答えは情報だ。環境へ量子情報が移転しているから──自然が絶えず対象を測定しているから──こそ、ネコは原子と違い、巨視的なものは微視的なものと違うのである。(中略)


さて、ここからデコヒーレンスという概念が使われていく。デコヒーレンスとは、対象となる物(微視的であれ巨視的であれ)の重ね合わせ状態が崩壊し、環境と絡み合っていく(=対象についての情報が、それを取り巻くものの中に流れ込んでいく)状態を言う。

 そしてこのデコヒーレンスこそ、微視的な対象と巨視的な対象がどう異なるのかを理解する鍵だ。ある対象から環境に情報が流れると、その対象は重ね合わせ状態を失う。ゆえにその振舞いが古典的な対象に似てくるのだ。だから理屈の上では、ネコが環境に情報をもたらすのを防ぐことができれば、ネコを重ね合わせ状態に保つことができる──本当に生きてもいるし死んでもいるネコをつくりだすことができる。それにはデコヒーレンスを止めなければならない。

(中略)

(前略)総じて、何かが小さいほど、単純であるほど、冷たいほどデコヒーレンスを起こしにくい。一方、何かが大きく、乱雑で温かいほど、どんなにこれを隔離しようと努力しても、それについての情報が環境にもれだす。科学者の計算によれば、絶対零度に近い宇宙空間の完全な真空の中にある直径1ミクロン──人間の髪の毛の太さ10分の1以下──のほこりの粒子ほど小さいものでさえ、100万分の1秒でデコヒーレンスを起こす。この粒子にキュービットを保存しても、自然が測定をおこない、1秒のほんの何分の一かで重ね合わせを破壊してしまう。(中略)
 これこそ微視的な量子世界と巨視的な古典世界との本質的な違いだ。(中略)野球のボールやネコのような大きな物体に量子情報が記録されても、情報は速やかに環境に広がり、その物体がどんな重ね合わせ状態にあったとしてもそれは破壊される。大きな物体は、その物体についての情報が周囲に流れ込むなかで、たちまち環境とからみあう。

(中略)

 情報──そしてデコヒーレンス──がシュレディンガーの猫のパラドクスの答を握っている。(中略)なるほど粒子は重ね合わせ状態にありうる。なるほどその重ね合わせ状態、そのキュービットをその粒子からネコに移転することも可能だ。確かにネコをある種の重ね合わせ状態に置くことは、少なくとも理屈の上ではできる。しかし、ネコは大きくて温かいので、誰かが箱を開ける前にネコの状態についての情報が環境にもれてしまう。ネコの状態は1秒が永遠に思われるほどの短い時間でデコヒーレンスを起こす。(中略)だから実質的には、ネコは一瞬のうちに生きるか死ぬかを「選ぶ」ように見えるのだ。(後略)

というわけで「シュレディンガーの猫」のパラドクスも解けて、やっと準備が終わった(いや今までの全部、準備だからさ)。これから量子意識論へと入っていくのだが、さすがに疲れたので今回はここで中断。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 量子論が語るもの 第1部 | トップ | 量子論が語るもの 第3部 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

心身宇宙論」カテゴリの最新記事