チャールズ・サイフェの『異端の数ゼロ』を読んでいてふと思いついたことがあって、それが自分の中では強烈なものだったので、ここにを書いておくことにした。
といっても私は物理の素養はほとんどゼロなので、単なる門外漢の与太話として読んでもらえばいいと思う。
なお、この記事は『異端の数ゼロ』の感想を述べるものではない。この本についてはブクレコにレビューを書いているので、興味のある人はそちらもドーゾ。
ではアニメ『Steins ; Gate』のOP「Hacking to the gate」とともに行ってみようか。
物理学では量子論と相対論という2つの理論がある。これらはそれぞれ、この世界のミクロのレベル、マクロのレベルという2つの側面について述べたものと言える。ということは、量子論と相対論を統合すればこの世界の全てを統一的に記述できる理論(これを万物理論という)ができるだろうということは、別に天才物理学者じゃなくてもわかる。
ところが、量子論と相対論は相矛盾していて、一方の理論を推し進めていくと、もう一方の理論が破綻してしまうのだ。だから万物理論を目指す物理学者たちは、この2つの理論にどう折り合いをつけるかに苦慮している。
だが、ここで発想を180°転換してみたらどうだろう。つまり、この世界を成り立たせている相対論と量子論はどこまでも矛盾し合い、それを統一することは不可能だ、と考えてみたら。そして、その2つの理論が矛盾していることで、この世界が今こうしてここに存在しているのだとしたら…。
さて、ここで論理式の話をしておかなければならない(もう少し厳密に言うと、命題論理式の話だ)。
論理式についてWikipediaでは
論理学において所定の形式文法から生成される形式言語の一部をなす文字列、すなわち、与えられたアルファベットに含まれる記号(シンボル)の列を意味する
と書かれている。もう少しかいつまんで言うと、「ある文法規則に従ってアルファベットと記号で書かれた文字列(記号列)」のことを論理式という。
例えば
(a→b)∧(b→c)→(a→c)
のようなものが論理式。
ついでに言うと、→は「ならば」、∧は「かつ」と読む。
つまり上の論理式は、
「(aならばb)かつ(bならばc)ならば(aならばc)」
という、有名な3段論法を論理式の形で記述したものなのだ。
ではここで、a→bという論理式について考えてみることにしよう。a→bはそれ自体が1つの命題だから、真偽を判断することができる。そしてまた、aとbにはそれぞれ命題を入れることができる。例えばaに「犬は哺乳類」、bに「キノコは菌類」と入れると、a→bは
「犬が哺乳類ならば、キノコは菌類」
となる。そして、この命題は真だ(別に犬が哺乳類であろうがなかろうが、キノコが菌類であることに変わりはないが、命題として真であることは確か)。
このようにして、命題aと命題bそれぞれの真偽と、命題a→b自体の真偽を一覧表にすると、こうなる。
a | b | a→b |
---|---|---|
真 | 真 | 真 |
真 | 偽 | 偽 |
偽 | 真 | 真 |
偽 | 偽 | 真 |
これを見ると、aが真の場合、a→bが真となるのはbが真の時だけだが、aが偽ならばbが何であってもa→bは必ず真となることがわかる。つまりa→bという命題は、aが偽ならばbがどんなムチャクチャなものであっても成立してしまうのだ。
だから例えば、
「犬が菌類ならば、東京湾からゴジラが現れる」
という命題は、東京湾からゴジラが現れなくても真なのだ。
ここで話を物理学に戻すが、勘のいいアナタなら、ここまでで私が何を意図しているか大体わかったのではないだろうか。
そう、要するにどちらもこの世界を成り立たせているはずの相対論と量子論が相矛盾しているので、aに「相対論と量子論は互いに整合的に成立している」という命題を与えると、それは少なくとも現在の物理学では偽になる。だからbが何であっても命題a→b自体は真となり、あらゆることが成立してしまう、という寸法だ。
そしてそれこそ、今この世界がこうして存在していると、いうことの根底にあるものだとしたら、そこから導かれる結論は2つのうちのどちらかだ。
1つは、万物理論は存在せず、よってaがずっと偽であり続ける場合。
その場合、bの命題「この世界は存在する」が真でも偽でも(つまり、この世界が多少不確かな存在に思えたとしても)a→bは常に真になるので、この世界は変わることなく存在し続けるだろう。
もう1つは、万物理論が存在し、実はaは真である場合。
この場合、bの命題「この世界は存在する」が真でない限り(つまり、誰にとってもこの世界は確固とした存在だと言い切れない限り)a→bは偽になり、その瞬間、この世界は消えてしまうだろう。
まさに、「その2つの理論が矛盾していることで、この世界が多少曖昧であっても、今こうしてここに存在している」ということが導かれてしまうのだ。
ついでに言うと、物理学には「人間原理」という仮説がある。さまざな宇宙定数や物理量は人という存在を生み出すために何かによって設定されたのではないか、とする説だ。これについては賛否が分かれているが、これについても上と同様に考えれば、bがどんな突拍子もない内容でもaが偽である限りa→bは真になってしまうので、「人間原理」もアリ、という結論が導けることになる。
最初に述べたように、これは「門外漢の与太話」にすぎない。けれども論理自体に破綻はない(と、少なくとも私は思う)。さて、これはどう考えたらいいのだろう?
──と書いたけど、よく考えたらコレ、根本的に間違ってるね(どこが間違ってるかワカルかな?)。
ここまで読んで下さった方、まったくもって失礼いたしました。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます