深く潜れ(Dive Deep)! キネシオロジー&クラニオセイクラル・ワーク(クラニオ)の蒼穹堂治療室

「ココロとカラダ」再生研究所、蒼穹堂治療室が送る、マニアックなまでに深く濃い、極私的治療論とお役立ち(?)情報の数々。

カバラと「生命の木」 25

2021-03-20 17:13:48 | 心身宇宙論

「カバラと『生命の木』」の第25回は、第24回に引き続いて第7セフィラ、ネツァクの話。

第6セフィラ、ティファレトによって「一なる生命の白き光」はプリズムのように分散され、その光はネツァクにおいて玉虫色に輝く「燦然たる光輝」となる。「一者」が形による顕現という目的のために「多者」へと変えられるのである(ネツァクに当てられた天使の位階がエロヒム=神々と複数形になっているのはそのため)。こうしてネツァクでは単一の力ではなく複数の力、単一の生命ではなく複数の生命を得ることになる。

ただしネツァクに顕現する全ての力、形、生命は、不完全で部分的で特殊化されたものに過ぎない。そんな我々の中のネツァクの要素を基礎としているのが本能である。

ネツァクの存在者、エロヒムとは観念の化身であり、それによって創造力が自然の中に現れる形成力の異名である。その本性は第4セフィラ、ケセドの中に認められるが、ネツァクにおいてイメージを形成する人の心がそれらの力に作用し始め、それらの力を意識に提示するようにアストラル・ライト(=上に述べた「燦然たる光輝」)を形成する。そうして、人が想像したものは全て、このアストラル・ライトによって形作られるのである。

人の心によって想像されたあらゆる天上的存在はその基礎に自然の力を持ち、その基礎の上にそれを表す象徴が築き上げられる。するとその象徴は、それが表す力によって魂を吹き込まれ、活力を与えられる。そのイメージは人の心によって便宜上仕組まれた、ただの絵に過ぎないのだが、そのイメージが表し、そのイメージに生気を与える力は極めて実在的なもので、ある状況下では非常に強力なものとなり得る。つまり、その神の姿は純粋な想像の産物に過ぎないとしても、それと結びつけられた力は実在的、機能的なものなのだ。そのため人はしばしば、そのイメージに過ぎないはずの神自体に力の本質があると誤解し、迷妄に陥る危険性を孕んでいる。

ネツァクとの接触は、感情を同調させることによって成立する。ネツァクの天使と接触し、それを呼び出すことができるのは、舞踏や音響や色彩によってである。ネツァクを礼拝する者は、芸術によってその礼拝する対象との交わりに入る。リズム、動き、色彩を持つあらゆる儀式は、ネツァクと接触するためのワークなのである。

ミクロコスモスにおいてネツァクは本能、つまり我々の本性の感情面を、そして第8セフィラであるホドは知性を表す。ネツァクは芸術家であり、ホドは科学者である。魂であるミクロコスモスにおいて、ネツァクとホドは両極の関係にある。自身の中でネツァクが機能していない者は魔法を使うことはできない。というのも、ホドの懐疑主義はあらゆる魔法イメージをそれが誕生する前に殺してしまおうとするからだ。、実践的ワークに入ろうとろするオカルティストの中には、ある程度の芸術性がなければならない。知性のみでは、それがどんなに強力であっても力は生じない。四大の力を意識に近づけるのは、我々の中のネツァクを通じてのみである。それゆえネツァクは密儀の門と呼ばれる。

そして密儀への鍵は「ヘルメスのエメラルド・タブレットに記されている」と昔から言い伝えられてきた。そこに刻まれている言葉こそ「上の如く、下もかくあり」である。

最後にネツァクの照応物についての話を動画で。


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