カズオ・イシグロの原作は読んだことがないが、映画版を公開当時に観に行ったことがある。もうかなり前なので断片的な記憶しかないが、あまり映画的な盛り上がりのない、淡々として、どこか静謐な作品だったという印象がある。色で言うと、青みがかったグレーという感じだ。
そのカズオ・イシグロの同名の原作を舞台化した『わたしを離さないで』を観てきた。場所はさいたま芸術劇場。演出は蜷川幸雄、主演は多部未華子、三浦涼介、木村文乃。なお、原作ではイギリスになっている物語の舞台を日本に移し換えている。
そのPVがYouTubeにアップされているので、貼り付けておく。
ヘールシャムと呼ばれる全寮制の寄宿学校で暮らす「特別な」生徒たち。彼らはヘールシャムを卒業すると、「提供者」としての使命を果たすための準備に入る。定められた運命を生きる彼らの姿を通して、「生きる」ことの意味を問う。
舞台の冒頭のシーンを見て、一瞬泣きそうになってしまった。まだ何も始まっていないのに。それは、目の前にあったのが、まさに映画の中に見たあの青みがかったグレーだったから。ほとんど忘れてしまって断片的な記憶しかない、あの映画の中で見た、あの色が見えたから。
物語の中では、ヘールシャムは70年台に世界中に作られたことになっている。それはあり得たかもしれない、もう1つの世界だ。そしてヘールシャムが作られていたら、間違いなく物語の中で描かれたとおりになっていただろう。ヘールシャムが作られなかったのは、そのための技術がなかったという、ただそれだけの理由による。逆に言えば、そうした技術が完成したら、あの世界がいつ現実のものになっても不思議ではないのだ。
そもそも生物としての我々は、他者の命を奪うことでしか生き続けることはできない(ベジタリアンであっても、植物の命を奪っているという意味では何ら変わりはないし、こうしている間にも免疫システムは非自己を攻撃、排除している)。「生きる」とはまさにそういうことであり、そこから目をそらして綺麗事だけで「生きる」ということを語るのは欺瞞でしかない。
この『わたしを離さないで』が直接のテーマとしてそうしたことを語っているわけではないが、私はそこまで考えないではいられない。あの青みがかったグレーを見た者として。
物語のクライマックス、彼らは運命に対してささやかな──そう、本当にささやかな──抵抗を試みる。しかし、運命に絡め取られた彼らにはもう一切の余地は残されていなかった──いや、最初から余地などありはしなかったのだ。
原題は、3人の主人公のうちの1人の少女がカセットで聴いている曲の名、『Never let me go』から取られている。"let go"とは「手放す」という意味だ。「決して私を手放さないで」という、このタイトルを思うとき、私にはこの物語のまた違った意味が見えてくるように思う。
記憶が曖昧なので間違いかもしれないが、映画は「提供」の場面で終わっていたように思うが、舞台はヘールシャムの追憶の場面で終わる。そのどちらに「救い」があるのかはわからない。ただどちらのシーンも、そこにはあの青みがかったグレーがあった。
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