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トリイとシーラ

2021-03-12 14:09:26 | 趣味人的レビュー

トリイ・ヘイデンという人の書いた『シーラという子』という本があることはずいぶん前から知っていたが、これまで全く関心がなかった。それがハヤカワ・ノンフィクション文庫から新装版が出たのを見て急に読んでみたくなって、早速読んでみた。

何と、今回の新装版の前、ハヤカワはトリイ・ヘイデン・レーベルの文庫を出していたのだ! ハヤカワはこれまでにもアガサ・クリスティーやダニエル・キイスなど特定の作家をプッシュすることはあったが、1人の作家でレーベルを作るなど、私の知る限りトニイ・ヘイデン以外、見たことがない。元々単行本で出されたが、文庫化された頃は多分、ヘイデンの書く本はそのくらい関心が高く、売れていたのだろう(ちなみにトリイ・ヘイデン文庫『シーラという子』の奥付には2004年6月15日発行とある)。

トリイ・ヘイデンの『シーラという子』は、情緒障害児教室や福祉施設などで勤務してきた彼女が出会ったシーラという少女について書いた実話である。

シーラは当時6歳で、"十一月の寒い夕方に、女の子は三歳の男の子を連れ出し、その子を近所の植林地の木にしばりつけて火をつけた"という。州は精神病院に送る手続きをしたが、小児病棟に空きがないという理由で、"精神遅滞の子どものクラス、身体的な障害をもつ子どものクラス、問題行動を起こす子どものクラス、学習障害の子どものクラス"からも落ちこぼれた、トリイ・ヘイデンの担当していた“くず学級”(これは蔑称ではなく、彼女は"うちの学区で愛情をこめて"そう呼ばれていた、と書いている)に入れられることになった、という。トリイのクラスに入るのはあくまで精神病院の小児科病棟が空くまでの一時しのぎということであり、トリイも「それなら」ということで渋々それを受け入れたのだった。

やって来た当初、シーラはいつも強烈な小便の匂いを漂わせた薄汚い身なりで、体にはいくつもの虐待の痕があった。季節労働者たちが暮らすエリアで、飲んだくれの父親と2人暮らし。母親は弟のジミーを連れて出て行ってしまったという。そしてシーラは初対面のトリイに対し、腕に鉛筆を突き立てるなど激しい敵意を見せる。だがその後、トリイはシーラが誰にも教わっていないのに同年代の子供より高い計算能力を持つことに気づき、IQテストを行ってみると、大人なら170~180に相当するようなスコアを叩き出す。

彼女はめったにいない、生まれながらにすごい才能に恵まれている天才の国の住人だったのだ。

だが、それはトリイとシーラの戦いの始まりに過ぎなかった…。

読みながら「教育とは人間を作る仕事」という、昔どこかで聞いたことがある言葉を思い出していた。実際、まるで手負いの獣のようだったシーラが徐々にトリイに心を開き、人間性を取り戻していく過程は感動的だ。が、そんな奇跡はもちろん綺麗事なんかでできることはなくて、トリイ自身の命を削るような苦闘の代償があって初めてできたことであることも分かる。2人の間に強い結びつきを作るキッカケとなるのがサン・テグジュペリの『星の王子さま』で、最後にトリイはそこに出てくる言い回しを使ってシーラに語りかける。

ねえ、覚えてる? あなたはわたしを飼いならしたの。わたしに対して責任があるのよ

と。

トリイ・ヘイデンにとってシーラ・レンズタッドという少女との出会いは、自らの人生を変えるほどの大きな出来事だった。トリイはその5カ月間の出来事を『シーラという子』という本に綴ったが、トリイとシーラの“闘い”はそれで終わりではなかった。あの別れの日から7年を経て再び出会った2人を描いた続編──それが『タイガーと呼ばれた子』である。

トリイと別れた時、シーラは7歳だった。14歳になって再会したシーラは、髪をオレンジ色に染め、パンク風のファッションに身を包み、そして7年前のあの日々をほんの断片的にしか覚えていないと言う。そのことにトリイには驚きであり、ショックだった。だが、シーラと過ごすうち、その理由が徐々に明らかになる。『シーラという子』を読んだ人ならお分かりかもしれないが、そこでは大きな問題が2つ積み残されたまま終わっている。1つはシーラが当時トリイの担当していた“くず学級”に入ることになった事件のこと、もう1つはシーラを捨てた母親のこと。『タイガーと呼ばれた子』では再びこの2つの問題が取り上げられ、特に後者はこの『タイガー』の大きなテーマとなっている。

『シーラ』も読んでいてヒリヒリする本だったが、『タイガー』も(『シーラ』とはまた違った意味で)読んでいてヒリヒリする本だ。それはどちらもシーラという少女のむき出しの心/魂に触れざるを得ないからであり、それゆえ読む者も覚悟が求められる。しかも、これは小説=フィクションではなく実話=ノンフィクションだ。だから(『シーラ』の方はまだ、出会いで始まり別れで終わる物語性と、最後にシーラが人間として大きく成長するというある種のカタルシスがあるが、『タイガー』の場合)読み終えても明確な救いは与えられず、そこにはモヤモヤした、どこかやるせない幕切れがあるだけだ(単行本を最初に文庫化したトリイ・ヘイデン文庫版の裏カバーの内容紹介には"真の癒やしを見出すまでのシーラとトリイの葛藤を描く。"とあるが、私には彼らが見出したのはせいぜい「落としどころ」だけであって、「真の癒やし」にはほど遠いとしか思えない)。けれども現実とは得てしてそういうものだし、それがノンフィクションのノンフィクションたる所以だろう。

ところで『シーラという子』の原題は『One Child』というとても素っ気ないものだが、『タイガーと呼ばれた子』の原題は『The Tiger's Child』という。このタイトルはシーラが大好きだというサン・テグジュペリの『星の王子さま』に出てくる虎にちなむものでもあり、また「勇気ある子」というニュアンスでも使われている。そして日本語には「とても大切なもの」という意味の「虎の子」という言い回しがある。トリイにとってシーラとは(獣のように扱いにくいところも含めて)まさに「虎の子」だったのだと思う。

※「本が好き」に投稿したレビューを修正したもの。


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