『劇場版 鬼滅の刃 無限列車編』を見てきた。『鬼滅』は元々TVシリーズを全話リアルタイムで見ていたので、その流れで劇場版も見に行ったのである。
ちなみに今、世の中は熱に浮かされたように『鬼滅』、『鬼滅』と大盛り上がりだが、私自身はそこまで好きな作品ではない。TVシリーズと劇場版を合わせた作品の評価は、点数なら6.5/10、A~Eの5段階評価ならC+といったところか。要は、6点は出せても7点は付けられないし、Cだとちょっと低いけどBでは高すぎる、というのが私の中の『鬼滅』の位置づけだ(原作は読んでないし読む予定もないので、あくまでアニメとしての『鬼滅』の評価だが)。
「無限列車編」に関しても、『鬼滅』自体が“熱血バトルマンガ”であるのに対して、私はそもそも天邪鬼な人間で、熱血展開になればなるほど心が冷めてしまう質(たち)だから、「無限列車編」のストーリーラインは楽しめたし、「ああ、ここが“泣かせ”のポイントだな」というのは分かったが、結局最後まで泣くことはなかった。
以下、「無限列車編」は予告編として公開されている部分を除きネタバレはしないようにしつつ、世にある数多くの考察とは違う視点で、TVシリーズと劇場版から『鬼滅の刃』という作品について考えてみたい。
まず、知っている人には必要ないだろうが、一応『鬼滅の刃』という作品について紹介すると、「週刊少年ジャンプ」に連載された吾峠呼世晴(ごとうげ こよはる)のマンガが原作で、アニメはufotableが制作している。
物語の舞台は大正時代頃の架空の日本。そこは「鬼」と呼ばれる存在が跋扈して、しばしば人が鬼に喰われる事件が起こっている。が、一般には鬼の存在は知られておらず、歴史の闇の中で遙か過去から続く鬼狩りの集団「鬼殺隊」が密かに鬼たちと対峙し、人々を鬼たちから守っている。
そして『鬼滅の刃』は第1話で、主人公である竈門炭治郎(かまど たんじろう)が留守にしている間に家が鬼に襲われ、妹の禰豆子(ねずこ)を除く全員が惨殺、しかも生き残った禰豆子も鬼になってしまう(鬼の血を飲むと人は鬼になる)。だが禰豆子は鬼になっても奇跡的に人の心が残っていて、炭治郎は禰豆子を人に戻すため、その方法を知る唯一の存在、全ての鬼たちのルーツにしてその頂点に立つ、鬼舞辻無惨(きぶつじ むざん)を求めて厳しい修行と過酷な選抜試験を突破して鬼殺隊に入隊。同期生である我妻善逸(あがつま ぜんいつ)、嘴平伊之助(はしびら いのすけ)とともに、鬼殺隊を統べる「お館様」の命の下、鬼狩りに従事している。
映画化された「無限列車編」は物語中盤のエピソードで、無限列車で乗客が次々に消えるという報告を受けた鬼殺隊は「これは鬼の仕業だ」と判断し、炭治郎ら3人に加えて「柱」(=鬼殺隊の幹部クラス)の1人、煉獄杏寿郎(れんごく きょうじゅろう)を派遣。彼らが無限列車に巣くう鬼、魘夢(えんむ)と戦うことになる。
『鬼滅』のストーリーライン自体は“ジャンプのバトルマンガ”のフォーマットの単なる焼き直しに過ぎない(とはいえ、これまで多くの作品を成功に導いてきた由緒正しいフォーマットだから、それをなぞるだけで一定レベル以上の作品にはなる)が、それが「ジャンプ」の読者層を超えてこれだけ支持されるのは、やはり登場人物がその背景まで含めて分厚く描かれているからだろう。鬼と戦う人、鬼に殺される人、そして鬼になった人、…それぞれに固有の物語があり、それが丹念に描かれる。そして、その多くが(擬似的なものも含めた)「家族」の物語である。
例えば鬼殺隊は「お館様=“親”方様」をトップとする疑似家族だ。現に「お館様」は隊士のことを実の子のように「あの子たち」と呼んでいる。隙あらば逃げようとする善逸を厳しく鍛え上げた鬼殺隊の元柱だった「爺ちゃん」と善逸の関係も、どこか本当の祖父と孫のようでもある。炭治郎の目的もまた「妹の禰豆子を人に戻す」というその一点に向いている。それに対して鬼の方はというと、累(るい)という鬼が他の鬼たちを集めて作ろうとした疑似家族は最初から破綻していたし、鬼舞辻無惨はブラック企業のトップさながらで、家族的な雰囲気は微塵もない。その両者のコントラストが作品のカラーを作っている。まさに『鬼滅』とは何よりも「家族」の物語なのだ。
その一方、それゆえ『鬼滅』はまた“呪い”に満ちた作品でもある。「男だから」、「女だから」、「○○家の人間だから」、「長男だから」…といったように、その人の思考や行動を縛る観念を“呪い”と呼ぶ(「呪」とは元々「縛るもの」という意味だ)。鬼殺隊の柱の多く昔から鬼狩りに携わってきた一族の末裔で、それゆえ彼らは鬼と戦うことが自分の運命でありアイデンティティであるという“呪い”を受けている。炭治郎が禰豆子を人に戻そうと奮闘するのは、それが「長男としての務め」だからだ。
けれども、その“呪い”こそが『鬼滅』の最大の「泣かせ」ポイントになっている。TVシリーズ最大の見せ場である「那田蜘蛛山(なたぐもやま)編」で、炭治郎が「自分は長男だから負けられない」と、刀を折られながら鬼の累と死闘を繰り広げる19話は、twitterで『鬼滅の刃』の英語名である"Demon Slayers"が世界トレンド1位になったほどだ。「無限列車編」でも、感想に「特に煉獄杏寿郎に泣けた」というのをしばしば見かけるが、それもまた杏寿郎が過去に受けた“呪い”が関係している。
最近のスピ系ではそうした“呪い”を解除することがトレンドになっているが、もしかしたら逆で、多くの人は口では“呪い”を解いてほしいと言いながら、本当は“呪い”を掛けてほしがっているのではないか。『鬼滅』のあの異様な盛り上がりを見るにつけ、そう思わずにはいられない。
それともう1つ“列車つながり”で、「無限列車編」と松本零士の『銀河鉄道999』とを比較して考えてみたい。『999』では機械伯爵に母を殺された少年、星野鉄郎が謎の美女、メーテルとともに「機械の体をタダでくれる星」を求めて星々を巡るが、全編を通じて問われるのは、限りある生と限りない生=不死のどちらを選ぶのか、という問題であり、鉄郎は最後までその2つ間で迷い続ける。
対する「無限列車編」にも全く同じ問いが出てくるのだが、こちらは『999』と違って、その答えは明確で一切の迷いがない。その清々しいほどの迷いのなさがいかにも“ジャンプのマンガ”という感じではあるが、実に潔くて、それも“泣かせ”のポイントになっている。
そして多分、もっと前の私ならその迷いのなさ、潔さに素直に共感できたかもしれない。けれど年齢を重ねた今は、そういう迷いのなさ、潔さは「若さ」あってのものであることが分かるので、『鬼滅』の登場人物たちの迷いのなさが「若さ」に依拠しただけのとても薄っぺらいものに感じられて、見ていて何だかシラけてしまった。
というわけで少々辛い評価になってしまったが、見て損したと思う作品ではないので、興味があれば話のタネに見ておくのも悪くないと思う。
最後に、映画の公開によってネットに膨大な『鬼滅』論が上がっているが、その中で私が読んで印象深かった論考に、青山学院大准教授の森島豊という人が現代ビジネスに書いた「大ヒット『鬼滅の刃』、若者に刺さりまくった「炭治郎の一言」をご存じか? 「どうでもいい」を超えるもの」がある。私とは全く違う切り口で『鬼滅』について興味深い考察をしているのでゼヒ一読を。
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