仙丈亭日乘

あやしうこそ物狂ほしけれ

【昔の手帳から】 1月17日 (81年:マーラー「復活」)

2012-01-17 00:01:00 | 昔の手帳から
【1981年】(1囘生)

18:00 京1 京都大學交響樂團 マーラー「復活」
モギの下宿 with イノマタ

土曜日。

京都會館第1ホールで、京大オケを聽いた。
曲はマーラーの交響曲第2番「復活」。
とんでもない大曲で、大學オケがよくこんな曲に挑戰したものだと驚いた。
合唱は京都大學合唱團やグリークラブなど、學内のさまざまな合唱團が參加したのだとか。
初めて聽いたマーラーの「復活」は、私の想像を遙かに超えたエネルギーを放射し、私は打ちのめされてしまつた。
ベートーヴェンの第9には感動するが、この「復活」には感動といふ言葉とは違ふ、もつと根源的な衝動につきうごかされさうになる、そんな危險なものすら感じられた。
ちなみに、大學オケだけでこの曲を演奏するのは日本初の試みだと宣傳してゐたやうに記憶してゐる。
その後、東大のオケのはうが早いといふ話を聞いたが、定かではない。

第128回(1981年1月)
山岡 重信 客演指揮
ウェーバー 「オベロン」序曲
マーラー 交響曲第2番「復活」
(ソプラノ: 岩崎 由紀子、アルト: 安念 千重子 /合唱: 京都大学音楽部「復活」合唱団、合唱指揮: 石原 哲、益子 務)

演奏會のあと、その足でモギの下宿に立ち寄つた。
そこにはモギの友人イノマタが遊びに來てゐた。
イノマタは塾講師の話をモギにもちかけてくれた男で、その話をモギが私にもちかけてくれた。
12日 にモギから話を聞き、 14日 にはモギとイノマタと連れ立つて奈良・富雄にある塾に行つて塾長から話を聞き、講師をすることにした。
つまり、私が塾講師の仕事を得ることが出來たのはイノマタのお蔭なのだつた。




【1983年】(3囘生)

學年末試驗開始
5 萩原 東洋史(講) 2講

月曜日。

文學部の學年末試驗期間が始まつた。
學部の單位を取るために私がまづしたのは、少しでも興味のある講座がればその試驗日程をメモすること。
そこから出席をとつてゐない講座に絞り、さらにその講座をとつてゐる友人を搜す。
そして、その友人からノートを借りて勝負するわけだ。
でも、さうさう條件に當てはまるものは少ない。

この日は、5コマ目に萩原教授の東洋史學が第2講義室で行はれた。
どうやら、あひにく、この講座は上記の條件に當てはまらなかつたやうだ。




【1984年】(4囘生)

カワムラと富雄へ。 來年度の打合せ

火曜日。

枚方の塾は、富雄の塾のいはば支店。
モギ、カワムラ、私の3人で始めて、3年が經たうとしてゐた。
モギはこの年度から富雄本部の講師になつてをり、枚方はカワムラが事務長となつて運營し、講師はC高OBを中心に固めてゐた。
この日、カワムラと私は富雄・本部に出掛け、1984年度の枚方の運營について打ちあわせをした。
内容は覺えてゐないが、私は84年度から富雄・本部で講師をすることになつた。
富雄は枚方よりも遠く通勤時間が増えることになるが、そのぶん報酬をあげてくれることになつた。
枚方初年度は時給¥2,000だつたが、その後少しづつ上がり、富雄での報酬は時給¥3,000になつた。
1日4時間、月に9日とすると、月36時間となり、¥108,000。
おほむね月に¥100,000は稼いでゐたことになる。
當時の新卒初任給が¥130,000~¥140,000だつたことを思へば、たいしたものであつた。





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