宗教の「宗」は、うかんむりに「示す」と書きます。
うかんむりはどうしてうかんむりと言うのかと考えると、
うかんむりの「う」は、うちゅうの「宇(う)」です。
宗教とは「宇宙を示す」、宇宙が教えてくれることを教え諭すのが本義なのでしょう。
うかんむりに「玉」で「宝」。玉とは「玉(ぎょく)」のことですね。魂。宝物。
うかんむりに「女」で「安」。安心、安全、安らぎの「安」です。
女性であろうと男性であろうとすべての人が本来こういう状態で、
幸せで「ある」のです。そこに気づけるかどうか。
宗教はそういった宇宙の教えを示すはずだったのが、完遂できなかった。
普遍的真理のはずが、「うちとよそは違う」と言って信徒の囲い込みをしました。
どの宗教の教義も根っこは「宇宙」で同じはずですが、大人の諸事情で同じと認められなかったのです。
理由のひとつに「献金制度」があります。宇宙なのに?矛盾が生じますが、現実なのですから仕方ありません。
人は、隣家の果実が熟したら自由に勝手についばむわけにもいかないので、
「鳥のように自由に生きなさい」という教義自体に矛盾があったのです。
「神が与えたもうた」はきれいごとで、人には法律や道徳があります。
というわけで中世ヨーロッパでは、「十分の一税」として収穫物の十分の一を教区民から徴収しました。
今も、収入の十分の一を献金として納めるルールを設けている教会もあるようです。
「すべて宇宙が教えてくれる」と教え諭すところは
どの宗教でも「同じ」と本当は気がついていたとしても、
何か「違う」と言って切り分けないといけないジレンマが、
純粋に使命感を抱く聖職者にはきっとずっとあったことでしょう。
手を合わせる対象が石や岩、木や山だったときは「十分の一税」のようなルールはなかったはずですが、
教会の信者、神社の氏子、お寺の檀家など教会や寺社の維持発展に貢献してきました。
世界中に残された美しい教会やお寺、神社などの建造物も、熱心な信徒のおかげで建てられそして保存されてきました。
1964年、東京オリンピックの年に建てられた丹下健三の東京カテドラル聖マリア大聖堂、
19世紀後半に建てられたニューヨークマンハッタン5番街にあるセントパトリック大聖堂、
このような立派な教会建築を目にすることができているのも、献金システムのおかげなのかもしれません。
そして、宗教が強大な権力を持っていた時代が長く続いたからこそ、
美しい遺産が世界各地に残されました。
一方で、表面の塗装がはげ落ちて本質が見透かされるような時代に突入し、それにつれて宗教の在り方も変容しつつあるようです。
イエスキリストが既婚者で、マクダラのマリアが妻であったことをローマカトリック教会が2016年に認めましたが、宗教の権威を保とうとして2000年も嘘の上塗りを貫いていたわけです。
「塗装がはげ落ち」は比喩的な表現でしたが、絵画には「塗り重ね」があります。
多くの傑作が残された「油絵」とはそもそも絵具を塗り重ねて描くものです。
油絵は、塗り重ねると下に描いていたものが見えなくなるのですっかり描き改めることもできます。
ほとんどの画家はよりよく描こうと描き改めたのでしょうが、ダビンチはちょっと違った。
『モナリザ』は何層にも重ねて描き改められていることがわかってきましたが、
未来へのメッセージとしてそれをしたのではないかとの憶測を呼んでいます。
憶測通り、ダビンチの最高傑作と言われる『モナリザ』の下にはマクダラのマリアや聖母マリアの肖像が隠されていてそれが天才ダビンチの隠された意図だったとしたら、
『最後の晩餐』にもたくさんのメッセージが残されていそうな気がします。
ですがどれもこれも、いつかすべて宇宙が教えてくれて明らかになることでしょう。
💓今日も、最後までお読みいただきありがとうございました!💓