室内楽。贅肉を削ぎ落とし、感覚を研ぎ澄ます音楽。
身軽な独身男の何をしでかすか分からない、そんな危険な香りも…大きな組織に依存しない音楽。
量より質の、質・内・楽。
作曲中、盛り上げようとして、ついオーケストラと同じ発想をしてしまうが、それは使えない。オケならではの量感でアピールしていたのと同じ事を小編成でやっても、「何やっとんねん!」となるのが落ちだ。
反面、大編成では艶々と磨きがかかり、時に肥大化し、ゴージャスな成金趣味になってしまうところを、室内楽では素材の音そのものの持つ生々しさを活かし、原石をどかどかっと無造作に配置し、ぶつけ合うことで世界観を表現するような事が出来る。
同じヴァイオリンでも、オケと室内楽では全く異種の趣となる。アンプリファイすればなおさら。
アンプリファイを導入したら、クラシック音楽の常識は覆る。
ピチカートが火花のように走る。チェロの高音域から断末魔の金切り声が叫ぶ。バスフルートは狼の遠吠えの如くむせび泣く。これはタブーだろうか?
音楽をCDや放送で聴く場合、必ずその音はアンプリファイされている。電気的な信号はアンプリファイすることでスピーカを鳴らす。電気の力を必要としないのは、生で聴く時だけだ。
生の音は最高だ。しかし生には音響上の制約が存在する。その制約や特性を知ることは作曲の大切な勉強の一つであり、作曲の先生や審査員は実際、この能力で食べている部分も大きい。大切な音が他のパートに隠ぺいされて聴こえなかったら即、作曲の失敗だ。
一方、現代音楽のダイナミズムは、しばしばこの現象を誘発し、時に容認するかのようだ。一体、巨大なオーケストレーションを相手に、ヴァイオリン・コンチェルトやチェロ・コンチェルトのソロが、生で満足に聴こえるだろうか。聴こえないからと言って、その作品は失敗の烙印を押されるべきなのだろうか。
確かに、人間の耳にはどんなに性能の良いマイクも叶わない。注意を向けた音は大きく聴こえる。アンプリファイは、問答無用で「これを聴け!」と命令するようなもの。
アンプリファイして大きくなった音と、楽器本来の能力を演奏家が発揮して出した輝かしい音は全く違う。物理的な音量は小さくとも、渾身の力をこめて出しているがゆえに、単なる大音量よりも遥かに訴える力が大きい場合もある。これこそクラシック音楽の醍醐味だろう。
そもそもテクノロジーは、表現を、感動を、豊かにするのか?頼るほどに、未練を増長させるだけではないのか?
始めから面白いおもちゃはすぐに飽きる。日進月歩するテクノロジーの進化により、最先端のハイテクはたちまち古くなる。
むしろ単純なものは成熟度が高く、時の流れにも風化しないだろう。単純がゆえに応用が広く、奥が深い。それがアンプリファイ。
しかしご用心!強い刺激はやがて麻痺し、反発や拒絶反応を生む。アンプリファイの乱用は遠近感をおかしくし、却って平板にしてしまう。ナチュラルメークが最も効果的。
いま、アンプリファイを導入した室内楽作品を作曲中。
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