池田 悟≪作曲家≫のArabesque

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モノクロ・倍音マジック…フルート・オーケストラ

2007-06-29 | 作曲/大編成

フルート・オーケストラは、ピッコロからコントラバス・フルートまで、フルート属だけのオーケストラだ。単色の、コーラスのような物だ。
今、宗教的なコーラスの作品に取り組んでいるが、〆切までまだ十分猶予があるのでこちらにも関心を寄せている。禁欲的な合唱作品とは反対に、器楽的作曲技巧の髄まで推し進めたい。
タイトルは一昨年作曲し、演奏されないままでいる大編成の曲のタイトル、「誕生」を意味する言葉を転用しよう。
合唱作品が死を見つめた物なので丁度対照的で、これら二つの曲を同時に構想するのは精神衛生上良いし、互いの性格を際立たせることにもなるだろう。
有名な例では、ベートーヴェンが交響曲第5と第6を同時期に作曲している…「ンタッタッタ・ター」という同じモチーフ。

フルートには倍音が無い。合奏で他の楽器が強く演奏すれば最も食われやすい、弱肉強食の最弱者に序列される楽器。
そのフルートだけが集まったなら、鰯の群れさながらのモザイクになるだろう。群れることで絹糸のように倍音を人工的に作ることも可能になる。鰯も群れれば一頭の鯨のような姿になるように。[2007/06/05]

フルートだけのオーケストラは、音響学的に言えば、サイン・ウェーブとホワイト・ノイズで作った電子音楽のようなもの。
サイン・ウェーブ…音叉の音、時報の音…学生時代、シンセサイザーが恋人だったから、その特性はよく知っている。口笛はサイン・ウェーブで作る。トライアングルの音もサイン・ウェーブをいくつも、平均律から外した高音域の不協和音にして作る。
サイン・ウェーブは高音域で光り、中音域から低くなるにつれ利用価値が失せていく。低音域ではどんなにヴォリュームを上げてもモワーっとした感じで「ヴォリュームを上げ過ぎるとスピーカーが壊れるので要注意」と説明書に書いてあった。倍音の無い音には低さが感じられないのだ。低い音は基準のピッチによってではなく、むしろその音にどれだけ倍音が含まれているか、によって低さを感じるのだろう。
反対に高い音の倍音は、その多くは可聴範囲を超えているので、実質的に倍音の有無はあまり問題では無くなる。フルートの音だろうが、クラリネットの音だろうが、ヴァイオリンの音だろうが、トランペットの音だろうが、シンセサイザーの模倣音でピアノの最高音域の高さ―実際にはピッコロ以外はあり得ないが―で出してみれば、どれも似たり寄ったりに聴こえる。

この原則にのっとり、低さや輝かしさを出したい時には、人工的に倍音を作る。これは和音を作る感覚とはまた違う。一本の音型の上に10声部以上の倍音を平行に重ね、それをPC.で再現させると和音には聴こえず、パイプオルガンのような輝いた単旋律に聴こえた。理論的には当たり前のことだが、実際にやってみたら感激した。
ただ、こういうことだけを並べて音楽作品になるか、と言えば、それは別。コンセプトだけでは曲にならない

この曲では音秩序変換―転調に代わる自らの作曲技法―を従来にも増して推し進めた。同属楽器のみ、単色のオーケストラゆえの必然だったろうか。
点描的なカオス、和楽器の語法の借用(邦楽作品を作った経験が生きた)、オーケストラ全体を一陣のつむじ風にしたり、そして上記の倍音操作も…。
例えば16分音符一つずつ倍音の含有量を変え、ザザザッと動かす。その同じ音型をただ繰り返すだけでは飽きるので、最初はピッチを変えてみたが、違和感があった。「ピッチを変えることによる単調さの打開」という手法は一聴して古典的だ。繰り返す際、低い方の倍音から少しずつ除去してみたら…徐々に蜃気楼のように霞んでいった。電子音楽的発想のリアライズ、サプライズ。
尺八の模倣などは、理論的に分析しサインウェーブの集積に置き換えさえすれば望んだ響きになる、という訳でも無かった。
フルート・オケに詳しいフルーティストの意見を聞いたりもした。[2007/06/14]

フルート・オケの初稿をまとめたが物足りない。墨絵の龍神のような表現は出来ないものか。
モノクロームならではの陰影の深さ、どすの利いた表現…生命のポジティブな営みの中にある、固唾を呑む場面や、死と隣り合わせの充実感…平凡な日常を超えた域にまで近づけないものか。
たった数秒のシーンを何度も書き直し、聴き直す。大規模なコピー・ペーストをして安易にまとめたフォルムを叩き割り、辻褄合わせの水増し小節を捨て去る。
一打ごとに倍音の含有量を変えた実験的なページは、その意図が明確なだけに却って作品として本当に必要なのかどうか持て余し、何度も削除し、付け直し…消去してしまおうかとさえ思った。

最後まで悩んだのはホワイト・ノイズ(息音)から発想した「つむじ風」。
最初は音を厚く重ね、風らしくピッチが分からないようにした積もりだが、その反面、泥水の中でドジョウが泳ぎ回っているような響きになってしまった。
重ねた音を思い切って半分に減らした。澄んだ音になり、少しは宙に浮いている感じに近づいた…カルテットでもそうだった
カルテットの時と違うのは、「つむじ風」というコンセプト。単にランダムな音列を散りばめれば良いという訳ではなく、予測不能で不定形な柔らかい音のうねりを造り出すのは至難の業。
とりわけ「音秩序変換」の名の下、多様なスタイルを詰め込んだ結果、一つの作品として統合するのが困難になることを学んだ。これこそが、この作品の最大の収穫だったかも知れない。
それにしても、この様なアブノーマルな編成には前例が無いからか、情熱が湧く。一生に一度だろうとも思う…行きずりの恋?
(写真:from 龍神)



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2 コメント

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最近は創作欲開花ですね。 作品は委嘱作品でしょ... (Amicizia)
2007-06-16 06:54:09
最近は創作欲開花ですね。 作品は委嘱作品でしょうか?たしかにコンセプトと作品は違いますね。 ”アイディアの羅列”という言葉は分かり易いと思います。 最近はヤマハ等でフルートオーケストラのコースなぞがあります。 弦楽器と違って敷居が低く、流行の兆しがあります。 演奏(他人と合奏)して楽しい曲というポイントで作成されるのもひとつではないでしょうか?バイオリニストの鶴我裕子さんも著書で書いてますが日本(社会)には合奏(する風習)が足りないと嘆かれてますね。
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Amiciziaさん。 (I)
2007-06-16 23:51:32
委嘱ではなく、自発的に書いてます。
折角その編成を選んだのだから、各楽器の長所を生かすことと、自分の耳で聴いて、よしと出来ること…を心掛けています。
数日前に一応最後まで埋めたのですが、その時点では単にコンセプトをつないだに過ぎず、直し、今は多少ましになりました。
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