作曲教室のある生徒は音楽理論の逐一を質問した。質問に答えながら自分も再発見する事があり楽しかったが、和声の各パートの音域の理由や、開離配分と密集配分の効果の違いにまで質問が及ぶと、自分自身そんな事には疑問すら抱かなかったため、却って説明するのに苦慮した。
その方がソナチネを作曲していた時、「オーケストラのためのソナタは交響曲だし、弦楽四重奏曲の多くは弦楽四重奏のためのソナタだ」と僕が言うと、「ソナタはなぜそんなに重宝されているのか」と訊かれた。歴史の話をすれば長くなる。益々質問が増え、墓穴を掘る。
「対照的な2つの主題には潜在的な共通点があり、提示部の要素だけで意表を突くドラマを構築していく、という一見矛盾するような、しかし合理的な形式が、ドイツ人の気質に合ったのだろう」と説明した。
彼女は「対照的な2つの主題に潜在的な共通点がある」ことの価値に中々納得しなかった。
「リズムが限定されていれば共通点が出来るのは当たり前」「アルペジオと音階で作れば簡単に共通点は作れる」等、僕が「その通り!」と言っても「それではパズルのようなこじつけだ」と不服そうだった。
他にも「なぜ提示部を反復するのか」「なぜ2つの主題は調が違うのか」「なぜ第2の主題は第1のものより長くするのか」「なぜ再現部では2つの主題の調を同じにするのか」「なぜ先生は私が作った伴奏に爆笑したのか」…等、音楽形式を形式的に学ぶだけでは済まさない。
「その曲で扱われ、加工される元の主題をよく聴いて覚えてもらうために提示部を反復する」と答えれば、「では何度も聴かれているクラシックのソナタは反復する必要は無いはず」と切り返され、しばしば作曲のレッスンというより討論会になり、話下手な僕は普段使わない脳をフル稼働させねばならなかった。
第2の主題が第1のものより長くなるのはなぜか。これは実は日常生活でもよくあることだ。
例えば「明日は出席する」と約束したのに急な都合で取り消す際、単に「明日は欠席する」では済まない。「明日は出席する、と言ったけれども出席出来なくなったので、やっぱり欠席する」と最低これだけの字数が必要だ。
また、両主題以外の素材を活用させたい場合、これも社会通念の中で新参者が振る舞うのと同様、最初はコーダの素材としてごく控えめにたった一言だけ発する。
スクリャービンの「第5ソナタ」中、僕が「メフィスト・ワルツのスキップ」と称したものがそれだ。後半、両主題だけでは限界に達すると、満を持して新参者が大活躍して主役に代わる。
そして展開部という反駁の嵐に拮抗するため、再現部では2つの主題が一つの調に結束し、一段と主調をアピールする。
このような原理に基づくソナタ形式が、論理的思考を好み、また戦乱に明け暮れたヨーロッパ人をカリスマ的に魅了し、音楽史の中で王座に永らえたのも当然だと言えよう。
開離と密集の効果、和声の各パートの音域の違いですか。そのようなことを考えておられる生徒さんがいらっしゃったわけですか。すごいですね。ぼくも考えたことありませんでした。改めて自分の勉強不足を痛感させられました。
ところで、最近課題が難しくなってきているように思います。ソプラノとバスの旋律が与えられてアルトとテナーの音を考えることが苦手です。そしてさらに内声にも非和声音を加えてもよい条件に悩みます。お見せするのが恥ずかしいほど和声記号がすごいことになっております。
また先月のレッスンで内声の音符は例えば四分の四拍子では四分音符が普通ということを教わりました。確かにバスと同じ動きをアルトとテナーにも施すのは過重すぎるというよりも無駄なことをやっているなあと後で気がつきました。しかしどの小節も内声は四分音符でいいのでしょうか。そこで非和声音がちらつくのですが、どう使うかまた悩みます。
というわけでまた愚痴みたいことを書いてしまいましたが、教えていただければ幸いに存じます。
必ず四分音符という事ではありません。ソプラノやバスの音型を模倣する形で非和声音を用います。
美しく作るのはだれにとっても難しいですが、ここからが真髄です。
作曲家になった気分で切磋琢磨する喜びが待ってますよ!