前回の続きです。
本:プレアデス 神聖なる流れに還る より
「悪いことをした人は罰せられたり
苦しんだりすべきだという考えを解放すること」
について話してくれました。
クートフーミは、高次元の光の存在から
恩寵として地球に与えられる一定の配分が、
一種の流れが止まったような状態にあると言いました。
原因はなんと言っても、
自分たちに害を与えたとわかった相手に
「大多数の人間がまだ屈辱と罰を望んでいる」ためです。
前回のこの内容について、
こちらの本「神との友情(下)」にも
書かれていたのでご紹介したく思いました。
👇
(それで、罰を与えようとする。
だが報復するため、
ーーつまり「仕返し」するために罰してもーー
あなたがたが創りたいという社会はできない。
高度に進化した社会は、
罰からほとんど学べないことに気づいた。
それよりも、結果の方が良い教師であると考えたのだ。)
本:神との友情(下)
著:ニール・ドナルド・ウォルシュ
(抜粋です。途中から. P99)
神:
その物語を変え、自分たちについての考えを変え、
人類という種(しゅ)についても考えを変えなければ、
全面的に愛することは出来ない。
なぜなら、自分自身を全面的に愛することすらできないから。
それが全面的に愛することの第一歩だ。
自分自身を全面的に愛さなければいけない。
罪を負って生まれた自分は
基本的に邪悪だと考えている限り、
自分を全面的に愛することはできないよ。
人間の基本的な性質は何か?
これがいま人類の前におかれている
最も重要な問題だ。人類は本質的に
信頼できない邪悪なものだと信じるなら
その見方を支える社会を創り出し、
それを正当化する法律を制定し、
規則を採用し、規則を実施し、制約を課すだろう。
人類は本質的に信頼できる善良なものだと信じるなら、
まったくちがう種類の社会を創り出すだろうし、
法律や規則、規制、制約はほとんど必要なくなるだろう。
最初の社会は自由を制限し、
第二の社会は自由を与えるだろう。
神が全面的な愛であるのは、全面的に自由だからだ。
全面的に自由だということは、
全面的な喜びにひたされているということだ。
全面的に自由なら、あらゆる喜びに満ちた経験ができる。
自由は神の本質だ。人間の魂の本質でもある。
自由度が減少するにつれ、喜びも減ってく。
それにつれて、全面的な愛の可能性も低下していく。
ニール:
前にもその話はなさいましたね。
だから、きっと重要なことなんだ。
全面的な愛とは全面的な自由だということですね。
神:
そう。そして、他者にも全面的な自由を与えるということだ。
ニール:
すると、誰でも好きなことをしていい、ということですか?
神:
そういうことだよ。人間として可能なかぎりはそうだ。
そう言っている。それが、神の愛し方だ。
神は赦(ゆる)す。
わたしはすべてのひとに、好きなようにさせる。
ニール:
結果は問わないんですか?罰はないんですか?
神:
その二つは、べつのものだ。
くり返し言ったように、わたしの王国には
罰などない。だが、結果はある。
結果とは自然ななりゆきで、
罰とは通常のなりゆきだ。
あなたがたの社会では罰が通常だ。
あなたがたの社会では、ただなりゆきにまかせて
結果を見るのは、通常ではない。
罰とは、自然な結果を待つ辛抱強さがないということだ。
ニール:
それでは、何をやっても
罰するべきではないとおっしゃるんですか?
神:
それはあなたが決めることだ。
実際に、毎日決めている。
毎日選択をするなかで、
社会やひとの行動を変化させたければ、
どんな方法が最も効果があるかを考える。
それで、罰を与えようとする。
だが報復するため、
ーーつまり「仕返し」するために罰してもーー
あなたがたが創りたいという社会はできない。
高度に進化した社会は、
罰からほとんど学べないことに気づいた。
それよりも、結果の方が良い教師であると考えたのだ。
すべての知覚ある存在は、
罰と結果のちがいを知っている。
罰は人工的に創られた結果だ。
結果は自然のなりゆきだ。
罰は、罰される者とはちがった価値観を持つ
外部の誰かが強制する。
結果は、自己が内部で体験するものだ。
罰とは、それは悪いことだという他人の決定で
結果とは、それはうまくいかないという
自分自身の体験だ。
意図した結果を生まないという体験だ。
ニール:
言い換えれば、罰を受けてもなかなか学べない、
「誰かが自分を罰した」と思うからだ、
ということですね。結果から学べるのは、
自分がしたことだと思うからでしょう。
神:
そのとおり。よくわかったじゃないか。
ニール:
でも、罰も結果ではないんですか?
そこが肝心なんじゃないですか?
神:
罰とは人工的に創られた結果で、
自然に起こる結果ではない。
罰を結果だと言い換えて、
結果にしようとしてもそうはならないよ。
そんな言葉の言い換えでだまされるのは、
非常に未熟な者だけだし、
それでも長い間はだまされない。
とはいえ、あなたがたの多くは子供を育てる時に
その手を使うがね。そして、あなたがたが
考え出したいちばん重い罰とは愛を与えないことだ。
子供に「そんな態度をとったら愛してやらない」と言う。
自分の行動を正当化するためなのは明らかだ。
いいかね。真の愛は決して出し惜しみをしたりしない。
それこそが、全面的な愛だ。
愛には、最も間違った行動さえも包み込む力がある。
それだけではない。どんな行動でも
「間違っている」とは言わない。
ニール:
エリック・シーガルが言っていますね。
愛とは決して後悔しないこと。
神:
まったく、そのとおりだよ。
だが、これは非常に高度な原則で、
おおぜいの人間が実行しているとは言えない。
ニール:
たいていのひとは、神さまだって
実行しているとは思っていないな。
神:
そのとおりだ。わたしは実行していない。
ニール:
え、何とおっしゃったんですか?
神:
わたしは、そのものだから。
自分自身を実行することはない。
もともとそうなのだ。
わたしは無条件の限りない愛だ。
わたしは全面的な愛であり、全面的に愛するとは
全ての知覚ある存在に、どういう存在で何をし、
何を望むかという全面的な自由を与えることだ。
ニール:
当人にとって良くないことでも、ですか?
神:
それを決めるのは、あなたではない。
ニール:
自分の子供でも?
神:
子供が成熟していればそうだ。
おとなになっていればそうだ。
まだ未熟な場合には、
いちばん早く成熟に導く方法は、
できるだけ早くから自分で選択する自由を与えることだ。
それが愛だ。愛は手放す。
だが、あなたがたがよく愛と混同する
必要だという思いは反対だ。
必要だと思うとしがみつく。
それが愛と必要だという思いを見分ける方法だよ。
愛は手放すが、必要だという思いはしがみつく。
ニール:
すると、全面的に愛するなら手放せ、と?
神:
それもひとつだ。
期待を手放し、要求を手放し、愛する者に
押し付ける規則や規制を手放す。
制約されていたら、愛されている事にはならない。
全面的な愛ではない。
あなただってそうだ。自分を制約して
全面的な自由を与えないなら、
自分を全面的に愛していることにはならない。
だが、選択は制約ではないことを忘れないように。
自分がした選択を、制約と呼んではいけない。
子供たち、愛する者のすべてが良い選択ができるように。
もっている情報のすべてを与えてやりなさい。
「良い」とは、望んだ結果が生まれるような選択、
彼らが最も望む結果になるとわかっているような選択の事だ。
つまり、幸せな人生だ。
そのために、あなたが知っていることを分かち合いなさい。
あなたが理解したことを教えてやりなさい。
だが、自分の考えやルール、選択をひとに押し付けてはいけない。
ひとが、自分とちがう選択をしたからといって、
愛を出し惜しみしてはいけない。それどころか、
ひとが貧しい選択をしたと思うときこそ、
愛を示してやりなさい。
それが、優しさというものだ。これより高い表現はない。
ニール:
全面的な愛には、ほかにはどんな意味がありますか?
神:
どんなときにも、しっかりと向かいあうこと。
しっかりと意識すること、完全にオープンで、
正直で、透明であること。
心にあふれる愛をしっかりと表現すること。
全面的な愛とは赤裸々で、隠れた問題や動機が
いっさいなく、なにごとも隠さないこと。
ニール:
それで、わたしのようなふつうの人間に、
そんな愛が可能だとおっしゃるんですか?
誰にでも、それができると?
神:
できるどころではない。
それがあなたがただ。
それが、あなたがたの本質だ。
そうしないことのほうが、よほどむずかしい。
あなたがたは毎日むずかしいことをしている。
だから、人生がそれほど困難なのだ。
だが楽なことをすれば、真の自分から出発して
真の自分になろうと決意すれば、
つまり純粋な限りない無条件の愛になれば、
人生はもういちど、簡単になる。
すべての苦しみは消えるし、すべての争いはなくなく。
その平和はいつ何時、達成されるかもしれない。
その平和への道は、簡単な質問にあるだろう。
「いま、愛なら何をするだろうか?」
ニール:
あの魔法の質問ですね?
神:
そう。あの素晴らしい質問だ。
なぜなら、あなたはつねに答えを知っているから。
魔法のようなものだ。
石鹸のように浄化してくれる。
親しくなっても不安でなくなる。
すべての疑いや恐れを洗い流してくれる。
精神が魂の智恵にひたされる。
ニール:
良い説明ですね。
神:
真実だよ。この質問をすれば、
すぐにどうすべきかがわかる。どんな状況でも、
どんな条件があるときでもわかる。
答えが与えられる。あなたがたが答えだ。
質問をすれば、あなたがたのなかの
答えの部分が呼び出される。
ニール:
自分をだましたら?
自分をだますことはできませんか?
神:
すぐに答えが浮かんだら、
いちいち考え直したりしないこと。
考え直すと、自分をだますかもしれない。
自分がだまされてしまう。
愛の心に入っていき、
そこからすべての選択や決定をしなさい。
そうすれば、平和を見いだすことができる。
☆**~☆**~☆**~☆**~☆**~
今日も読んでいただきありがとうございました。
今日(毎週水曜日)のインドのあきこさんの
ヒーリングライブは夜9時からです。
あと一時間後~!
HSP、うつ、パニック障害、繊細で敏感な方に
良い情報がありそうですね。
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(今日もポチ↑っとお願いします✨)
感謝します。😃
ありがとうございました💕
本:プレアデス 神聖なる流れに還る より
「悪いことをした人は罰せられたり
苦しんだりすべきだという考えを解放すること」
について話してくれました。
クートフーミは、高次元の光の存在から
恩寵として地球に与えられる一定の配分が、
一種の流れが止まったような状態にあると言いました。
原因はなんと言っても、
自分たちに害を与えたとわかった相手に
「大多数の人間がまだ屈辱と罰を望んでいる」ためです。
前回のこの内容について、
こちらの本「神との友情(下)」にも
書かれていたのでご紹介したく思いました。
👇
(それで、罰を与えようとする。
だが報復するため、
ーーつまり「仕返し」するために罰してもーー
あなたがたが創りたいという社会はできない。
高度に進化した社会は、
罰からほとんど学べないことに気づいた。
それよりも、結果の方が良い教師であると考えたのだ。)
本:神との友情(下)
著:ニール・ドナルド・ウォルシュ
(抜粋です。途中から. P99)
神:
その物語を変え、自分たちについての考えを変え、
人類という種(しゅ)についても考えを変えなければ、
全面的に愛することは出来ない。
なぜなら、自分自身を全面的に愛することすらできないから。
それが全面的に愛することの第一歩だ。
自分自身を全面的に愛さなければいけない。
罪を負って生まれた自分は
基本的に邪悪だと考えている限り、
自分を全面的に愛することはできないよ。
人間の基本的な性質は何か?
これがいま人類の前におかれている
最も重要な問題だ。人類は本質的に
信頼できない邪悪なものだと信じるなら
その見方を支える社会を創り出し、
それを正当化する法律を制定し、
規則を採用し、規則を実施し、制約を課すだろう。
人類は本質的に信頼できる善良なものだと信じるなら、
まったくちがう種類の社会を創り出すだろうし、
法律や規則、規制、制約はほとんど必要なくなるだろう。
最初の社会は自由を制限し、
第二の社会は自由を与えるだろう。
神が全面的な愛であるのは、全面的に自由だからだ。
全面的に自由だということは、
全面的な喜びにひたされているということだ。
全面的に自由なら、あらゆる喜びに満ちた経験ができる。
自由は神の本質だ。人間の魂の本質でもある。
自由度が減少するにつれ、喜びも減ってく。
それにつれて、全面的な愛の可能性も低下していく。
ニール:
前にもその話はなさいましたね。
だから、きっと重要なことなんだ。
全面的な愛とは全面的な自由だということですね。
神:
そう。そして、他者にも全面的な自由を与えるということだ。
ニール:
すると、誰でも好きなことをしていい、ということですか?
神:
そういうことだよ。人間として可能なかぎりはそうだ。
そう言っている。それが、神の愛し方だ。
神は赦(ゆる)す。
わたしはすべてのひとに、好きなようにさせる。
ニール:
結果は問わないんですか?罰はないんですか?
神:
その二つは、べつのものだ。
くり返し言ったように、わたしの王国には
罰などない。だが、結果はある。
結果とは自然ななりゆきで、
罰とは通常のなりゆきだ。
あなたがたの社会では罰が通常だ。
あなたがたの社会では、ただなりゆきにまかせて
結果を見るのは、通常ではない。
罰とは、自然な結果を待つ辛抱強さがないということだ。
ニール:
それでは、何をやっても
罰するべきではないとおっしゃるんですか?
神:
それはあなたが決めることだ。
実際に、毎日決めている。
毎日選択をするなかで、
社会やひとの行動を変化させたければ、
どんな方法が最も効果があるかを考える。
それで、罰を与えようとする。
だが報復するため、
ーーつまり「仕返し」するために罰してもーー
あなたがたが創りたいという社会はできない。
高度に進化した社会は、
罰からほとんど学べないことに気づいた。
それよりも、結果の方が良い教師であると考えたのだ。
すべての知覚ある存在は、
罰と結果のちがいを知っている。
罰は人工的に創られた結果だ。
結果は自然のなりゆきだ。
罰は、罰される者とはちがった価値観を持つ
外部の誰かが強制する。
結果は、自己が内部で体験するものだ。
罰とは、それは悪いことだという他人の決定で
結果とは、それはうまくいかないという
自分自身の体験だ。
意図した結果を生まないという体験だ。
ニール:
言い換えれば、罰を受けてもなかなか学べない、
「誰かが自分を罰した」と思うからだ、
ということですね。結果から学べるのは、
自分がしたことだと思うからでしょう。
神:
そのとおり。よくわかったじゃないか。
ニール:
でも、罰も結果ではないんですか?
そこが肝心なんじゃないですか?
神:
罰とは人工的に創られた結果で、
自然に起こる結果ではない。
罰を結果だと言い換えて、
結果にしようとしてもそうはならないよ。
そんな言葉の言い換えでだまされるのは、
非常に未熟な者だけだし、
それでも長い間はだまされない。
とはいえ、あなたがたの多くは子供を育てる時に
その手を使うがね。そして、あなたがたが
考え出したいちばん重い罰とは愛を与えないことだ。
子供に「そんな態度をとったら愛してやらない」と言う。
自分の行動を正当化するためなのは明らかだ。
いいかね。真の愛は決して出し惜しみをしたりしない。
それこそが、全面的な愛だ。
愛には、最も間違った行動さえも包み込む力がある。
それだけではない。どんな行動でも
「間違っている」とは言わない。
ニール:
エリック・シーガルが言っていますね。
愛とは決して後悔しないこと。
神:
まったく、そのとおりだよ。
だが、これは非常に高度な原則で、
おおぜいの人間が実行しているとは言えない。
ニール:
たいていのひとは、神さまだって
実行しているとは思っていないな。
神:
そのとおりだ。わたしは実行していない。
ニール:
え、何とおっしゃったんですか?
神:
わたしは、そのものだから。
自分自身を実行することはない。
もともとそうなのだ。
わたしは無条件の限りない愛だ。
わたしは全面的な愛であり、全面的に愛するとは
全ての知覚ある存在に、どういう存在で何をし、
何を望むかという全面的な自由を与えることだ。
ニール:
当人にとって良くないことでも、ですか?
神:
それを決めるのは、あなたではない。
ニール:
自分の子供でも?
神:
子供が成熟していればそうだ。
おとなになっていればそうだ。
まだ未熟な場合には、
いちばん早く成熟に導く方法は、
できるだけ早くから自分で選択する自由を与えることだ。
それが愛だ。愛は手放す。
だが、あなたがたがよく愛と混同する
必要だという思いは反対だ。
必要だと思うとしがみつく。
それが愛と必要だという思いを見分ける方法だよ。
愛は手放すが、必要だという思いはしがみつく。
ニール:
すると、全面的に愛するなら手放せ、と?
神:
それもひとつだ。
期待を手放し、要求を手放し、愛する者に
押し付ける規則や規制を手放す。
制約されていたら、愛されている事にはならない。
全面的な愛ではない。
あなただってそうだ。自分を制約して
全面的な自由を与えないなら、
自分を全面的に愛していることにはならない。
だが、選択は制約ではないことを忘れないように。
自分がした選択を、制約と呼んではいけない。
子供たち、愛する者のすべてが良い選択ができるように。
もっている情報のすべてを与えてやりなさい。
「良い」とは、望んだ結果が生まれるような選択、
彼らが最も望む結果になるとわかっているような選択の事だ。
つまり、幸せな人生だ。
そのために、あなたが知っていることを分かち合いなさい。
あなたが理解したことを教えてやりなさい。
だが、自分の考えやルール、選択をひとに押し付けてはいけない。
ひとが、自分とちがう選択をしたからといって、
愛を出し惜しみしてはいけない。それどころか、
ひとが貧しい選択をしたと思うときこそ、
愛を示してやりなさい。
それが、優しさというものだ。これより高い表現はない。
ニール:
全面的な愛には、ほかにはどんな意味がありますか?
神:
どんなときにも、しっかりと向かいあうこと。
しっかりと意識すること、完全にオープンで、
正直で、透明であること。
心にあふれる愛をしっかりと表現すること。
全面的な愛とは赤裸々で、隠れた問題や動機が
いっさいなく、なにごとも隠さないこと。
ニール:
それで、わたしのようなふつうの人間に、
そんな愛が可能だとおっしゃるんですか?
誰にでも、それができると?
神:
できるどころではない。
それがあなたがただ。
それが、あなたがたの本質だ。
そうしないことのほうが、よほどむずかしい。
あなたがたは毎日むずかしいことをしている。
だから、人生がそれほど困難なのだ。
だが楽なことをすれば、真の自分から出発して
真の自分になろうと決意すれば、
つまり純粋な限りない無条件の愛になれば、
人生はもういちど、簡単になる。
すべての苦しみは消えるし、すべての争いはなくなく。
その平和はいつ何時、達成されるかもしれない。
その平和への道は、簡単な質問にあるだろう。
「いま、愛なら何をするだろうか?」
ニール:
あの魔法の質問ですね?
神:
そう。あの素晴らしい質問だ。
なぜなら、あなたはつねに答えを知っているから。
魔法のようなものだ。
石鹸のように浄化してくれる。
親しくなっても不安でなくなる。
すべての疑いや恐れを洗い流してくれる。
精神が魂の智恵にひたされる。
ニール:
良い説明ですね。
神:
真実だよ。この質問をすれば、
すぐにどうすべきかがわかる。どんな状況でも、
どんな条件があるときでもわかる。
答えが与えられる。あなたがたが答えだ。
質問をすれば、あなたがたのなかの
答えの部分が呼び出される。
ニール:
自分をだましたら?
自分をだますことはできませんか?
神:
すぐに答えが浮かんだら、
いちいち考え直したりしないこと。
考え直すと、自分をだますかもしれない。
自分がだまされてしまう。
愛の心に入っていき、
そこからすべての選択や決定をしなさい。
そうすれば、平和を見いだすことができる。
☆**~☆**~☆**~☆**~☆**~
今日も読んでいただきありがとうございました。
今日(毎週水曜日)のインドのあきこさんの
ヒーリングライブは夜9時からです。
あと一時間後~!
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ありがとうございました💕