コシヒカリ

8月阿見町にて撮影
わが家は,今月に入って新米を食べている。茨城県産のコシヒカリ。値段が手ごろで,コシヒカリであれば,ほぼ間違いなくおいしいご飯が炊けるので,カミさんが選んで買ってきた。
コシヒカリは,二重の意味で奇跡のコメである。ひとつは半世紀近くにわたって,水稲作付面積日本一の座を占め続けていることである。もうひとつは,世に出た過程が,奇跡としか言いようがないことである。
1944年,水稲農林22号×農林1号の交配が,新潟県農事試験場で行われた。狙いは,当時新潟県のリーディング品種であった早生の農林1号の欠点である,いもち病に弱い性質を克服することであった。
1947年に,福井県農事改良実験所で水稲の育種が開始されることになり,各育種試験地に余っている雑種種子を福井県に譲渡するよう要請があった。新潟県は捨てるつもりだった,上の交配から得られた雑種第二代の20個体を,福井県に送った。
福井で育種を担当したのは石墨慶一郎氏で,彼はもともと農芸化学の出身で,育種は専門外であった。教科書通りに,譲り受けた20個体から世代を進め,1950年に雑種第五世代の5系統を選抜した。
その中の1系統は,交雑当初の目標通り,いもち病に強い早生で,たちまち農林番号(農林省が国の品種と認めて付与する番号)と,ホウネンワセという品種名をもらい,広く栽培されるようになった。
残りの4系統のうち,石墨氏がなんとなく残した1系統は,いもち病には弱く,中生で,倒れやすいという,芳しくない性質を示していたが,穂の熟れ上りがきれいで,ほかに材料がなかったので,1953年にこの種子を他県の試験場に配布し,検討を依頼することにした。
結果はさんざんで,最低の評価しか得られなかったが,新潟県と千葉県だけはこれを奨励品種に採用し,その結果,反対の声もあったが,1956年に水稲農林100号という番号をもらい,コシヒカリと命名された。農林1号から数えて国が育成した100番目の水稲品種である。
その後も,コシヒカリの評判はさんざんで,辛うじてほかに適当な品種がない地域で,細々と栽培が続けられた。そして,米余り,自主流通米制度の登場,米自由化という時代の流れの中で,その味の良さが,業者や消費者に認められるようになり,1979年,品種として名前をもらってから23年経過して,コシヒカリはようやく作付面積日本一の座を占めたのである。
コシヒカリは,早生でいもち病に強い品種をと交配された農林22号×農林1号から見れば,鬼っ子である。いもち病に弱く,中生で,草丈が高くて倒れやすく,なんでこんな品種が生き残ったのか。失礼な言い方だが,わたしには,育種を担当した石墨慶一郎氏が,素人だったからではないかと思われる。水稲育種の専門家の何人かから聞いたことだが,プロならばコシヒカリのような特性をもった系統は,絶対に選抜しないだろうということだ。
コシヒカリは選抜の過程で,品質/おいしさについては,全く検定されていない。作っている農家が自家飯米としておいしいので使い,卸売り業者が高く売れるので求めるようになったのである。
世界一おいしいコシヒカリは,幾重にも重なる奇跡を通ってわれわれの前にある。この奇跡に感謝しよう。
なお,コシヒカリの歴史には,ここに書かなかったいくつもの人間臭いドラマが絡んでいる。酒井義昭著『コシヒカリ物語 日本一うまい米の誕生』中公文庫(1997年)に,その経緯が詳しく述べられている。
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自民党の新総裁に,岸田文雄氏が選ばれた。阿部一強政治に訣別できるか,注目したい。