新藤宗幸
『権力にゆがむ専門知 専門知はどう統制されてきたか』朝日新聞出版 2021年
著者の新藤宗幸さんは,この本が出版されて3か月後に亡くなっている。絶筆であり,遺書と言ってもいいかもしれない。
新藤さんは千葉大学の名誉教授で,行政学が専門である。新聞や雑誌で書かれたものをいくつか読んだが,正論を主張する硬派の論客という印象を持っていた。
新藤さんは1946年の生まれで,いわゆる全共闘世代に属する。あとがきで少し触れているが,当時学生たちが問うた,「何のための学問か」,「誰のための学問か」という問題意識が,この著書の根底にあるように思える。
行政と専門知(学者・研究者)とのかかわりが,この本のテーマである。新藤さん自身行政学者として,多くの場面で行政にかかわっている。その経験が,テーマの背景にあるのだろう。
先ず問題にしているのは,2020年10月の政府による日本学術会議会員6名の任命拒否である。これを,政権批判の温床である人文科学系を狙い撃ちした,学問の自由への侵害と著者は断罪する。そして,この権力の姿勢が専門知を選択的に取り込み,専門知の側も権力に忖度する存在になってきていることに警告を発している。
著者は専門知と官僚・内閣との関係を歴史的に丁寧に追っている。官僚あるいは政府が専門知を必要とし,専門知も政策の立案に資する関係は,戦後の官僚制度において,それなりに有用に働いてきた。しかし,この関係に質的な変化をもたらしたのは,1980年に成立した中曽根内閣による「私的諮問会議」の設置であった。靖国神社参拝,防衛費のGNP1%枠の撤廃といった,一定のイデオロギー的方向性を持った諮問を,法律に基かない「私的な」会議に委ね,その実現を図るという手法は,第二次, 安倍内閣に引き継がれ,「有識者会議」を乱立し,専門知をその中に取り込んでいる。
その実態について,著者は原子力問題,新型コロナウイルス対策,介護保険制度,司法制度を例として,詳細なケーススタディーを行っている。一例としてあげれば,原子力規制委員会の委員から,地震学者が外されたことが取り上げられている。
総括的に言うならば,新自由主義の下,一党支配を背景にした内閣府の設置による官邸への権力集中は,官僚のモラール(やる気)とモラルを低下させ,政権に忖度する無邪気なエリートステータスを目指す専門知が動員されて,宣伝搭として利用されている。
著者はこのことに警告を発し,専門知に対して,「科学的マインド」を保持し,無原則な政治・権力への翼賛性を捨て,専門知としての自律性を回復するよう望んでいる。
わたし自身,専門知の端くれとして,行政とのかかわりを持つ機会は何回かあった。もうすでに時効になっているから書いても差し支えないと思うが,ある省のプロジェクトへの応募案件の審査を頼まれたことがある。案件はいずれも杜撰であり,説明員が計画に関わる専門用語の知識にも事欠いていることがあった。わたしはすべての案件に,厳しい評価をつけて報告した。プロジェクト担当者は予算の年度内消化を負わされていたのであろうか,評価結果の見直しを求めてきた。それに応じることはできなかったが,応募案件に順位付けすることには応じた。翌年のプロジェクト案件審査には,お声がかからなかった。
専門知・科学者の社会的責任は,複雑で難しい問題である。単純に人類のための研究と言い切れない場合が多い。明確な解答は得られないにしても,そのことを意識して営為を進めることが大切であろう。
オオムギ

阿見町にて4月19日撮影
整地の時にこぼれた種から発芽したのだろう。オオムギが穂をつけていた。「一粒の麦もし死なずば」(新約聖書ヨハネ伝)。
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