わが家の菩提寺,無極寺の山門の脇に,「学童集団疎開の碑」が建てられている。

2021年10月25日撮影。
1944年(昭和19年)8月,わたしの在学していた和田村立国民学校に,世田谷区立奥沢国民学校の3~6年生の生徒74名が,二人の訓導に引率されて,集団疎開してきた。
当時,わたしは3年生で,初めてまみえる「東京の子」たちは,まぶしかった。F・M 君はその中でも目立つ存在だった。後に,雑誌記者からその時の印象を訊ねられて,「明智小五郎の助手の小林少年のよう」と答えた記憶がある。
嬉しいことに彼とは親しくなることができた。日曜日にはわが家によく遊びに来てくれて,垢抜けした彼の話を聞くのが楽しかった。
F君は,1945年11月に疎開児童が東京に帰った後も,時々当時の恩師のお宅を訪ねて来て,たまにわたしと会うこともあった。
大学に入学して最初のクラスコンパの時に,話が疎開のことに及び,わたしの村に集団疎開の子供たちが来たことを口にしたら,同級生の一人から,「いじめたんだろう。」と難詰された。もちろん冗談交じりではあったが,やはりかなりのショックを受けた。
その数日後,F君から連絡があって,わたしの歓迎会をするので,彼の自宅に来て欲しいとのことだった。当日は,10人近くの元疎開児童が集まり,旧交を温めた。わたしはクラスコンパで受けたショックから,救われた思いがした。
F君はその後,疎開者で作る「奥沢和田会」の創設に参加し,東京の和田出身者や和田地区(旧和田村)との交流を続けてきた。和田近隣の小学校で,自身の疎開経験を講演し,その記録は教材として使われているという。残念ながら,F君は3年前に亡くなった。
「学童集団疎開の碑」は,奥沢和田会によって,1987年12月に建立された。両親から離れ,寺の本堂を宿舎として,信州の厳しい冬をまたいだ1年3ヶ月の生活は,筆舌に尽くせない厳しいものだったろう。にもかかわらず,和田を第二の故郷と言ってくださる気持ちを,わたしは尊いものだと感じる。
「学童集団疎開の碑」に込められた思いを受け止め,このようなことが2度と起こらないように心しなければならない。

碑の裏面には,疎開してきた児童と訓導,全員の名前が記されている。2021年10月25日撮影。

無極寺本堂。疎開児童の宿舎だった。2021年10月25日撮影。