1995年1月17日、休日明けの火曜日。
夜明け前に目がさめ、もう一度寝なおそうとする。少しすると、部屋がカタカタと鳴りはじめる。「地震?」と思っていると、ドンという地鳴りとともに激しい揺さぶりがくる。そばの本棚が倒れないことを願いながら、布団に潜り込んでいるしか動きようがない。
何度か揺れを繰り返しながら波が引いていく。
窓を開け周囲を見回す。特に変わりはないよう。「東海地震がついに?」と思い、田舎に電話をかけてみる。揺れはあったようだが大阪よりは小さかったよう。バイクが倒れて隣の車を傷つけていないか気になり駐車場に走るが、無事自立している。部屋に戻りテレビとラジオをつける。震源が大阪湾周辺らしいことと地下鉄が動いていないことの他は、情報が錯綜しているのか正確なことがわからない。私の頭も混乱しているのかもしれない。
事務所のことも気になり、7時過ぎにバイクで向かう。
歩道にはいつもより徒歩の人が多い。四ツ橋筋に入ると、それまでに増して歩行者であふれている。ぞろぞろとゆっくりした歩み。
事務所に着く。絵皿が落ちて1枚が割れ、筆洗から水がこぼれ床を濡らし、本棚から本が落ちて散乱し、コピー機が少しずれている。被害らしい被害はない。ラジオを付け(テレビはない)情報を求めるが、相変わらず錯綜してる模様。「それほどのことでもないんだろう」と高を括り、仕事を始める。
ラフの納品があったのでFAXで送るが、なかなか通じず昼頃になる。午後になって、ラジオからの情報が少しづつ具体的になっていく。神戸の方が特に被害が大きい様子。しかし「多少の被害は仕方ないのかもしれない」という思いでいる。
ラジオの声に耳を傾けながらも普段通りに仕事をする。
夕方、仕事をいつもより早めに切り上げて帰り、テレビをつける。そこに映し出される光景は、私の想像していたことをはるかに超えている。同じことをラジオでも言っていたんだろうけど、その惨状は想像の枠外である。
2日後、市役所に用があり本町から淀屋橋まで歩く。御堂筋沿いのビルには、シートや段ボールでふさがれた窓が目立つ。淀屋橋の地下鉄出口からバックパックを背負った家族が出てくる。母親と思われる人があたりを見回して言う。『なんで!?』。
心の中でなぜか「すんません」と応えながら市役所へ向かう。
1月17日が近づくと、当時の様子を記録した映像をテレビで見る機会が増える。それを見るたびに気持ちがざわつく。あの時に体験した恐怖が残っているのは確かですが、なにか言いようのない棘が刺さったまま残っているような気もします。
『記憶しよう。記憶すべきだ。我々の脳裏に、我々のすべてに希望はある。』 エリー・ウィーゼル
広島の平和記念資料館にこの言葉が記されているそうです。(私は未だに訪れたことがない。新聞からの情報です。)
氏の言葉を借りれば、1月17日の出来事は記憶すべきことのひとつなんだと思います。
思い出や懐古ではなく、記憶し続けていくこと。
2002.1.16 Wed. 小川 篤
夜明け前に目がさめ、もう一度寝なおそうとする。少しすると、部屋がカタカタと鳴りはじめる。「地震?」と思っていると、ドンという地鳴りとともに激しい揺さぶりがくる。そばの本棚が倒れないことを願いながら、布団に潜り込んでいるしか動きようがない。
何度か揺れを繰り返しながら波が引いていく。
窓を開け周囲を見回す。特に変わりはないよう。「東海地震がついに?」と思い、田舎に電話をかけてみる。揺れはあったようだが大阪よりは小さかったよう。バイクが倒れて隣の車を傷つけていないか気になり駐車場に走るが、無事自立している。部屋に戻りテレビとラジオをつける。震源が大阪湾周辺らしいことと地下鉄が動いていないことの他は、情報が錯綜しているのか正確なことがわからない。私の頭も混乱しているのかもしれない。
事務所のことも気になり、7時過ぎにバイクで向かう。
歩道にはいつもより徒歩の人が多い。四ツ橋筋に入ると、それまでに増して歩行者であふれている。ぞろぞろとゆっくりした歩み。
事務所に着く。絵皿が落ちて1枚が割れ、筆洗から水がこぼれ床を濡らし、本棚から本が落ちて散乱し、コピー機が少しずれている。被害らしい被害はない。ラジオを付け(テレビはない)情報を求めるが、相変わらず錯綜してる模様。「それほどのことでもないんだろう」と高を括り、仕事を始める。
ラフの納品があったのでFAXで送るが、なかなか通じず昼頃になる。午後になって、ラジオからの情報が少しづつ具体的になっていく。神戸の方が特に被害が大きい様子。しかし「多少の被害は仕方ないのかもしれない」という思いでいる。
ラジオの声に耳を傾けながらも普段通りに仕事をする。
夕方、仕事をいつもより早めに切り上げて帰り、テレビをつける。そこに映し出される光景は、私の想像していたことをはるかに超えている。同じことをラジオでも言っていたんだろうけど、その惨状は想像の枠外である。
2日後、市役所に用があり本町から淀屋橋まで歩く。御堂筋沿いのビルには、シートや段ボールでふさがれた窓が目立つ。淀屋橋の地下鉄出口からバックパックを背負った家族が出てくる。母親と思われる人があたりを見回して言う。『なんで!?』。
心の中でなぜか「すんません」と応えながら市役所へ向かう。
1月17日が近づくと、当時の様子を記録した映像をテレビで見る機会が増える。それを見るたびに気持ちがざわつく。あの時に体験した恐怖が残っているのは確かですが、なにか言いようのない棘が刺さったまま残っているような気もします。
『記憶しよう。記憶すべきだ。我々の脳裏に、我々のすべてに希望はある。』 エリー・ウィーゼル
広島の平和記念資料館にこの言葉が記されているそうです。(私は未だに訪れたことがない。新聞からの情報です。)
氏の言葉を借りれば、1月17日の出来事は記憶すべきことのひとつなんだと思います。
思い出や懐古ではなく、記憶し続けていくこと。
2002.1.16 Wed. 小川 篤