ブログを登録していると、一年前の記事が自動的にメールで送られてくる。
ほぼ10カ月間なんの記事も書かなかったのに、キチンと送ってくる。うまくできている。
機械的とはいえ、一年前の記事を見ると、懐かしい気持ちになるし、
再開のきっかけにもなりそう。
ただ、一年前と決定的に違うのは、
花の咲く時期だとか、実った果実たちのみのり具合とか、起こった出来事の違いではなく、
ほぼ四六時中一緒にいた愛犬、スミレがいなくなったこと。
丁度2カ月前。いろんな病状が重なって、わずか二日でスミレは逝った。
12歳と4カ月、短い命。
クルミが亡くなって2年。スミレの不調はクルミの死以降、いろいろと続いていた。
クルミという相棒がいなくなって、調子が悪くなったのだろうか。
人間よりも繊細なところがあるのかな、と毎日スミレの体調や顔色をうかがっていたのだが。
今年に入ってくらいからは、腹水がたまってきたり、ひどい下痢が続いたり・・・。
お医者さん通いで、腹水がおさまり、一時は小康状態だったんだが・・・。
亡くなる前、数か月間は、いろんな好きなもの、食べたいものをあげていた。
柔らかいパンや牛肉、ハムやビッツウインナー、鶏のささみを軽く塩味で炒めたもの。
それでも食が進まない時は、ゴハンとおかずを噛んで、口移しであげたり、
犬用ミルクで牛肉や、鶏肉を煮たり・・・・。
毎日、夫婦で悩みに悩んで、結局スーパーで買う食材がスミレ用のものが半分以上になることもあった。
でも、好きなものを食べさせて、少しはそれで、気もすんだ気もする。
とはいえ、なんとかできなかったものだろうか、といまだに思いは、辛く重たいものがある。
日にち薬、という言葉をよく言われるが、これはなかなか難しい。
ふと気づくと、スミレのいない空間を思い、涙が出る。
居ない姿を思い出すと、空虚とか虚ろってこんなことを言うのかな、と
ことばの重さを思い知らされる。
仕事でもしていれば気が紛れて、少しは楽になるんだろうけど、
隠居の身では、そうはいかず、スミレの姿を追ってしまって、ついつい涙が溢れる。
のがれようもない。
毎日涙を流さない日はなく、人間の涙はいったいどの位身体ににあるのか、と思う程。
情けないが、これが現実で今のところ如何ともしがたい。
忘れようがない現実は、避けることができないものだなと思う。
もし言葉が喋れたら、どこが痛い、ここが変、としゃべることができるんだったら、
なんとかしようがあったんだろうけど、犬とはそれができない。
一生懸命目を見たり、動きを見たりして、分かろうとしても限界はある。
だから、ペットに対する思いは、人間に対する思いより以上に深くなるのかもしれない。
そんな気がする。
そして、その悲しさ、虚しさに、涙が流れて仕方がないのかもしれない。
クルミの3回忌が終わった、と思っていたところの、スミレの死。
ペットロス、という体験をしているおおぜいの人たちが、
同じような辛い思いをしているんだろう。立ち直るのはむつかしい。
一番頑張っているのは、立ち直ったふりをすることなんだろう。
でも、時代も変わった。
出戻りの娘が、一緒につれ帰ってきた犬もいる。
また、日中の面倒を見る羽目になってしまっている。犬との縁は切れないのかな、と
少し自虐的に運命的なことを考えなくもないが、所詮飼い主は娘、と思い込むことにしている。
それはそれで、違う犬の姿を見ることも悲しさを思い出すこともあるのだが・・・。
日常のリズムが変わってきて、どこか区切りをつけないといけないかな、と
自分の中でいろんな葛藤が出てきているのも事実だ。そこで、ブログを再開しようか、と思う。
あまり力を入れずに。
<少し前、今年咲いたリンゴの花>

