映画と自然主義 労働者は奴隷ではない.生産者でない者は、全て泥棒と思え

自身の、先入観に囚われてはならない
社会の、既成概念に囚われてはならない
周りの言うことに、惑わされてはならない

映画『ひろしま』 (『原爆の子』より 関川秀雄 1953年 104分 北星映画)

2019年10月30日 09時26分00秒 | 邦画その他
ひろしま (1953年 104分 北星映画)

監督  関川秀雄
製作  日本教職員組合(担当 菊地武雄、伊藤武郎)
原作  長田新編集 『原爆の子』
脚本  八木保太郎
撮影  中尾駿一郎
    浦島進
美術  平川透徹
    江口準次
音楽  伊福部昭
編集  河野秋和

出演者
    広島原爆被害者
    広島各労働組合員
    園児、児童
    生徒、学生、PTA、一般市民 延べ八万八千五百余人

    山田五十鈴
    岡田英次
    加藤嘉
    月丘夢路
    原保美
    河原崎しづ江
    岸旗江
    利根はる恵
    神田隆
    月田昌也
    徳永街子
    薄田研二
    三島雅夫
    他.....

- 朝鮮戦争、マッカーサー -
1950年6月25日、朝鮮戦争が始まりました.仁川上陸作戦に成功し反撃に転じた国連軍は、中国国境迄進軍しました.けれども、中国軍が越境し攻撃してきて、窮地に陥り38度線まで敗走することになりました.この時マッカーサーは、中国領土の爆撃を主張し、原爆を落せば戦争は十日間で終わる、原爆を落すならば、ここと、ここと、ここ、と明白に原爆使用を主張したため、トルーマンに解任されました.

- 8月6日、エノラゲイの飛行 -
劇中のラジオの放送では、テニアンから2時45分エノラゲイ離陸と放送されるが、現地時間と時差が1時間あり日本時間では1時45分である.
故障に備えて予備機が硫黄島に行って待機していて、エノラゲイは硫黄島まで高度1500mの低空を飛行したらしい.
離陸時の事故に備えて、信管と言うより起爆用の爆薬を装填せずに離陸し、離陸後装填している.
装着場所は、私の記憶では硫黄島上空だったのだが記憶違いだろうか、最近読んだ資料ではテニアン離陸直後であるらしい.
爆弾は電気信管で、安全プラグ3個、緑から赤への交換を爆弾投下直前に行っている.

- 『日本人が有色人種なので原爆を投下した』 -
これは、あるドイツ人が勝手にそう思っただけの話、本に書かれたのを読んだだけの話であって、全く根拠はありません.

- 被爆者の治療 -
公益財団法人 放射線影響研究所
https://www.rerf.or.jp/glossary/abcc/
原爆傷害調査委員会 (Atomic Bomb Casualty Commission、ABCC)
1946年、広島・長崎の原爆被爆者における放射線の医学的・生物学的晩発影響の長期的調査を米国学士院-学術会議(NAS-NRC)が行うべきであるとするハリー・トルーマン米国大統領令を受けて、原爆傷害調査委員会(ABCC)が設立されました。当初、運営資金は米国原子力委員会(AEC)が提供していましたが、その後、米国公衆衛生総局、国立がん研究所、国立心臓・肺研究所からも資金提供がありました。1948年、日本国厚生省(現 厚生労働省)の国立予防衛生研究所が正式に調査プログラムに参加しました。ABCCは、1975年4月に発足した放射線影響研究所の前身です。

書かれているとおり、この組織は被爆者の治療を行う組織ではなく、放射線の影響を調査するだけの組織であって、それは放射線影響研究所となった現在でも変わらないようです.

この映画が撮られた時点では、被爆者の治療は全く行われていませんでした.アメリカの管轄下で被爆者の治療が行われていると思っていたけれど、現実には被爆者の病状がどの様に進行して行くか、観察しているだけで、治療は何も行われていなかったのです.治療をしたら病状の進行が分らなくなるので治療しなかった.アメリカは被爆者をモルモットの扱いをしている事実を、その事を報道規制によって秘密にして来た事実を、この映画は描きました.

- 似島の陸軍駐屯地 -
当時、広島駅の直ぐ北に、第二総軍の司令部がありました.アメリカ軍の本土上陸に備え、軍の司令部をもう一つ作ったのです.けれども第二総軍は原爆で多大な被害を受け救助活動が出来なかったので、当初は似島に駐屯していた陸軍部隊が中心になって救助活動を行いました.そのため被爆者の多くが似島に運ばれて、そして亡くなっています.
映画にも、被爆直後、多くの被災者が岸壁にあふれ、船に乗りきれない人達が海に転落する様が描かれています.
親を亡くした孤児達の収容施設も似島にあって、脱走した子供たちは持ち出した毛布を船賃にして漁船で海を渡りました.
この映画の、子供たちが被爆者の骸骨を探しに行った場所は似島の防空壕で、入り口は土で埋められていましたが、内部の遺骨は埋葬されたのではなく、遺体が白骨化した後に崩れてきた土が被さっただけのようです.
1952年に慰霊碑が出来たのですが、けれども一方では遺骨は放置されたままでした.


宇品港の岸壁であろう.船に乗りきれない人が海に落ちる.


向こうに見える島が似島らしい.


似島の陸軍駐屯地、あるいは学校であろうか、収容はされはしたが、地獄だった.
多くの人が、ここで亡くなることになった.

- 原爆犠牲者の骸骨の土産物 -
アメリカの勝利と栄光の記念品にと、原爆の犠牲者を模した、玩具の頭蓋骨を買って帰るアメリカ兵が沢山いたようです.
『人類の歴史上、最初にしてかつ最大なる栄光、この頭上に輝く.1945年8月6日』、戦争孤児の子供たちと一緒に、掘り出した犠牲者の頭蓋骨を、アメリカ兵に売ろうとしました.
チャップリンの『殺人狂時代』、『人間を一人殺すと死刑、100万人殺すと英雄』と言う言葉に影響を受けて、作者は頭蓋骨の玩具を勝利の栄光として買って帰るアメリカ人を批判しようとしたのでしょうが、『殺人狂時代』から悪い影響を受けた言葉だと思われます.アメリカ人にも良い人も悪い人もいるわけで、全部一緒くたにして批判するような言葉は頂けません.
警察に捕まったのだけど、けれども彼は反省したかどうか、あまりにもあやふやな描き方です.例えば、足の悪い女の子、彼女に「あなたは私が死んだら、私の頭蓋骨を土産物にして売るの?」と言わせれば、犠牲者の遺骨を売る奴も悪いし、買って帰るアメリカ兵も悪いと、はっきり描くことが出来たはず.


女の子はけいちゃん.男の子はゆきお.


戦争孤児のゆきおは、少年時代を『少年の島、似島学園』で過ごしました.警察に捕まって、ゆきおは最初は「宮島の土産物屋で買った」と言い、その後「島の防空壕で」と訂正しました.島の防空壕というのは似島の防空壕と考えるのが自然です.
映画の上映会の講演で「宮島の洞窟から持ってきた」ようなことを言っている方が見えますが、間違いです.
せっかく講演するのですから、少し勉強して正確な話をして下さい.


- チャップリンの『殺人狂時代』 -
『人間を一人殺すと死刑、100万人殺すと英雄』
原爆に限らず、戦争というのは沢山人を殺した者が英雄になるのです.ですから戦争を批判する言葉として捕らえるのは構わないでしょうが、ことさら原爆を強調するような受け取り方は、すべきではないと思います.
映画では、数人の殺人を犯した殺人犯が皮肉を言ったに過ぎません.

- 原爆投下目標都市 -
京都、広島、小倉、長崎、新潟が候補地であったが、なぜ新潟が候補に残っていたのかは疑問である.
原爆投下の第一目標が、京都から変更されて広島に決定したのは、7月25日頃の事らしい.原爆開発責任者のグローブスは最も人口の多い京都を軍事都市だと嘘をついて投下目標にあげたのだが、国務長官のスティムソンが京都を旅行したことがあり、軍事目標ではないと反対した.そのため、グローブスは広島は軍事都市であるとまた嘘の報告書を作成して、広島が第一目標に決定した.
軍人は戦争で手柄を立てて出世するものであり、つまりは沢山人を殺さなければ出世は出来ない.爆弾の開発責任者が、爆弾の威力の評価を得られやすい目標、人口の多い京都に落したかったのは、当然の事であったと言える.
前夜から空襲警報がなり、一晩中解除されませんでした.「今夜は寝られないかもしれない」、予想通りで一晩中寝れなかった.朝7時半頃、おそらく気象観測機が通りすぎて空襲警報が解除されたのだけど、しばらくするとまた飛行機の爆音が聞こえてきて.....ピカ.....明かにアメリカ軍は、いかに多くの日本人を原爆の犠牲者にするか、それを考えて投下したのだと思われる.
------------------------------
『ひろしま』予告編
https://www.youtube.com/watch?v=y28tMyJjlns&t=151s

【被爆者たちが出演】上映中止にされた超大作映画『ひろしま』とは【ETV特集×NHK1.5ch】
https://www.youtube.com/watch?v=UwnaJtPuP1g&t=91s
------------------------------

- 朝鮮人被爆者 -
中国新聞 検証 ヒロシマ 1945~95 <10> 被爆韓国・朝鮮人②
http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=27229
朝鮮人被爆者
依然つかめぬ全体像 9割が広島で被爆

広島、長崎で被爆した韓国・朝鮮人はどれだけいるのか。諸説あるが、正確な被爆者数は今も明らかでない。
原爆投下前の在留朝鮮人人口として、内務省警保局の資料がある。1944年、広島県は8万1863人(うち徴用など強制移入者5944人)、長崎県5万9573人(同2万474人)がいた。

しかし原爆投下時、広島、長崎市内にどれだけの朝鮮人が居住し、被爆後に入市したのか。広島、長崎両市が共同編集した「広島・長崎の原爆災害」(79年岩波書店刊)は「その把握は極めて困難」と述べながら、朝鮮人被爆者数は広島で2万5000~2万8000人、長崎1万1500~1万2000人と推定した。
その一つの基になったのが、韓国原爆被害者援護協会(現・原爆被害者協会)が72年に示した被害状況。広島で5万人、長崎2万人の計7万人が被爆し、4万人が死亡。日本に残った者を除く、2万3000人が韓国に戻ったとみる。が、これもあくまで推計である。

韓国保健社会部による初の本格的な実態調査が実施されたのは90年秋。その年春の日韓首脳会談で決まった在韓被爆者への医療支援費40億円拠出を受け、新聞・ラジオを通し被爆者が名乗り出るのを呼び掛けた。
その結果、新たに確認されたのは570人で、協会登録済みの被爆者と合わせ2307人となった。被爆地は広島が91%を占め、88%が原爆の後遺症を訴えた。
------------------------------

空中写真
http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1


整理番号 USA コース番号 5M335 写真番号 9273
撮影年月日 1945/07/25(昭20)
撮影地域 広島
撮影高度(m) 8500 撮影縮尺 14000
撮影計画機関 米軍
市区町村名 広島市中区


整理番号 USA コース番号 5M220 写真番号 1132
撮影年月日 1945/08/08(昭20)
撮影地域 広島
撮影高度(m) 5800 撮影縮尺 9500
撮影計画機関 米軍
市区町村名 広島市中区


整理番号 USA コース番号 5M391 写真番号 72
撮影年月日 1945/08/07(昭20)
撮影地域 広島
撮影高度(m) 9000 撮影縮尺 60000
撮影計画機関 米軍
市区町村名 広島市中区


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。